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ヴィンセンシオ・チマッティ神父

 1977年11月、列福調査のため一人のイタリア人宣教師の遺体検案が行われた。その遺体は特別の処置も施されずに土葬され、2年後に掘り出されてそのまま地下聖堂に安置されていたものだった。腐れかかった柩のふたが取り外された時、立ち会った人々は大変驚いた。遺体を持ち上げた医師は「今亡くなったばかりの人を抱きかかえたようだ」と語った。
 その遺体は1965年10月6日に亡くなったチマッティ神父のものだった。

 チマッティ神父は長年宣教地へ派遣される事を希望していた。その願いは46歳にしてかない、1926年にサレジオ会宣教師団9名の中の一人として来日した。
 最年長だった彼は、責任者として兄弟達のため、また宮崎、大分の教会のために心を砕いた。

 1935年に宮崎、大分が福岡教区から独立して「知牧区」となった時、チマッティ神父はその責任者に命じられた。もともと人の上に立つ役職を嫌っていた彼は、当時の長上に次のような手紙を送っている。
 「なぜ、私の気をくじくのですか。静かに仕事をさせて下さい。私は見世物になりたくはないのです。・・・名誉職、飾り、特別な服装など与えないで下さい。部下として働き、舞台の上で人を笑わせたり、ピアノを弾いたり、歌ったり、踊ったりするのが私には相応しい。今、私の胸には、生まれ故郷から受け継いだ反抗心が沸いています。・・・私は自由な神の子のままでいたいのです。」
 しかし、ローマからの任命を受けた時、彼は素直に従った。ただ、貧しさ、微笑み、仕事に対する熱心さなど、彼の生活スタイルは少しも変わらなかった。破れた傘を差しているのを見かねて声をかけた人には「私は旅行中よく眠ってしまうのだよ。これならば盗まれる心配もない。」と答えたという。

 チマッティ神父は音楽の才能にも優れていた。アシジの聖フランシスコ帰天七百年の祝いの折、音楽の面で依頼を受けた彼は、5回に渡ってコンサートを開き大成功を収めた。彼は「これこそ新しい宣教の方法」と思い、それ以降日本国内をはじめ、当時の満州、朝鮮半島にも足を運んでコンサートを開いた。イタリア歌曲やオペラの他に日本の歌も取り入れた。その中には自作の曲も多く含まれた。彼は曲目を説明する際、宗教や道徳の話をし、み言葉の種まきにも心がけた。こうして1940年頃までに、彼の行ったコンサートは、二千回を超えると言われている。

 「日本の土になりたい」と言っていたチマッティ神父は86歳でこの世を去った。府中カトリック墓地に土葬された彼の遺体は、その後人々を驚かせることになる。生前彼はユーモアを交えてこう言っていた。「天国へ行ったら神様の許しをもらって、人も驚くようなことをたくさんしようと思います。」
 現在チマッティ神父の遺体は、新しい石櫃に納められて調布サレジオ神学院地下聖堂に安置されており、多くの人が彼の取次ぎを願って訪れている。
 チマッティ資料館(調布)では、彼の作曲した曲の楽譜や手紙、自然科学の専門家として集めた数々の標本を目にすることができる。その中に彼の温かな人柄を見ることが出来るだろう。

(特集-司祭 7 2010/5/28)

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