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9. 信仰の座標 父親の模範 Ⅱ

―ディエゴ加賀山隼人の殉教―

 ディエゴ加賀山隼人は、小倉で、1619年10月15日54歳で殉教し、同日、大分の日出では、従兄弟の加賀山半左衛門が47歳で殉教し、さらにて17年後の1636年には、隼人の長女小笠原みやと夫の玄也、9人の子どもたちと召使たちが共に熊本で殉教しています。
 隼人は、17歳の時、武士として高槻城主高山右近に仕え、その後、細川忠興に仕えました。忠興は隼人を高く評価していたにもかかわらず、時勢に準じてキリシタン禁制に踏み切りますが、有能な家来を失いたくないので再三隼人に棄教を迫ります。「地獄に主君と落ちるのが武士道」と説得しますが彼は納得しません。ついに家老の役職を取り上げられ、監禁され、二年間貧しい生活を送りました。
 忠興は、1619年、10月6日に京都鴨川六条河原で52名のキリシタンが火刑に処せられたのを目撃し直ちに加賀山隼人の処刑に踏み切ります。10月15日に使者を送り、死を告げます。妻マリア、娘ルイザも共に殉教したいと願い出ますが聞き入れられませでした。隼人は、「今後起こる艱難と苦労の中に信仰を保つように、人生の苦労は強く耐えることが全てではない。喜んで耐えたいものだ」と妻と娘を諭し勧めました。その後全員跪いて祈り、ディエゴ隼人は燭台を手にして信仰の燃える証を表現しました。別れの盃を交わし、「パライソで会いましょう」と挨拶し合いました。小船で刑場に着くと人々を遠ざけ、殉教の地まで一人で行くことを願います。それは、より自由に静かに自分を主に委ねるためでした。手に十字架のキリストの御絵を持ち、殉教の地に着くまで詩編や連祷、その他の祈りを唱え黙想に浸りました。刑場に着くと痛悔の心を起こし、愛と敬虔を込めて祈りました。祈りが終わると絹の羽織を脱いで貧しい人にあげるように頼み、それから十字架上で亡くなった主キリストにならって素足になり、15歩ばかり歩いて跪き、再び祈りと瞑想に耽りました。斬首役人にどのように、どこから処刑すればよいかを教え、時が来れば自分から合図をする旨を伝えました。再び祈りと瞑想に戻り、最後に創造主に生命を捧げるために、イエス、マリアの御名を唱えました。斬首の役人には5回唱えた時に首を斬るように教え、一太刀を受けました。1619年10月15日備前小倉市においてのことでした。彼の死は細川藩の中に後々までも伝えられるほどに印象的なものでした。

参考資料
・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社)
・愛の証(殉教者列福調査委員会)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)

(特集-日本の殉教者 9 2008/4/25)

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