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外海の聖者 ド・ロ神父
長崎の外海では有名なド・ロ神父。
彼は宣教師として1868年に来日してから1914年に亡くなるまで一度も故郷に帰ることなく、私財をなげうって日本、特に長崎の貧しい人々のために自分を捧げた司祭である。
キリシタン禁制のさなか、来日のきっかけになったのはプチジャン神父の帰国だった。「石版印刷の技術を持ち、死を覚悟で、日本で働く司祭を」というプチジャン神父の求めに真っ先に答えたド・ロ神父は、すぐに印刷所に通い、それまで習得していた様々な技術に加えて印刷技術を習得し、プチジャン神父とともに日本へ出発した。
来日して12年後、ド・ロ神父は長崎の出津に赴任する。出津教会の主任をしながら彼がまず手を付けたのが福祉事業だった。授産施設「救助院」は、遭難漁民の寡婦ら貧しい婦女子に機織りや食品製造などの技術を教え、自力で生きて行く道を開けるよう援助する施設として開いたものである。農業にも通じていたド・ロ神父は、そうめんなどの材料となる小麦の種子をフランスから取り寄せて栽培し、水車小屋を造って製粉した。落花生油を使った独特の製法で、油となる落花生も地元で栽培した。こうして作られたそうめんは「ド・ロさまそうめん」の名で今も親しまれている。
里脇枢機卿の『ド・ロ様の思い出』の中に「ミサがすむとド・ロ様はしばらくお祈りをしてから、信者席におりてきて、子供たちを二列縦に並ばせ、後じさりしながら玄関まで誘導し、そこで分かれた。小さいときはこれもミサの一部と思っていた。ド・ロ様だけの特別サービスと解ったのはずっと後の事である。」と述べられている。子供たちに人気だったド・ロ神父の黒いスータンは、子供たちが慕い寄り、汚い手でつかむため、子供の背丈あたりだけテカテカになっていたそうである。
こんなエピソードもある。日本に来て多くの教会を建設したド・ロ神父は大野教会を建てる時、「早う泥ば上げろ、早う泥ば上げろ」という職人の催促に「あまりドロ、ドロと言いなさんな。時には土と言いなさい。」と冗談を言ったという話が残っている。信徒たちと仲睦まじく楽しんで建てていた様子が伺える。
まさに彼は、学んだ多くの技術を、日本の風土に合わせて土着させる能力を頂き、それを生涯かけて惜しまず使った人と言えるだろう。ド・ロ神父は教会、救助院、保育所、農漁業の改良、開墾、診療所、墓地と、人間の一生に必要なあらゆる施設を作り、神と人への愛を表した。
長崎県出津に彼の記念館が建てられており、神と共に、また人と共に生涯を過ごしたド・ロ神父の姿を今も伝えている。
(特集-司祭 3 2010/4/30)