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6. 夢に向かって走る

 「アジアの黄色い弾丸」と呼ばれる私は、視力は0、つまり、明暗も感じない、健常者が目隠ししているような状態の中で過ごしています。
 20歳の時、交通事故で失明し、今年で11年目になります。
 慣れた所は白い杖で探り、音を聞き、一人で歩けますが、知らないところは道がわからず不自由です。目が見えないことは不自由ですが、不幸ではありません。皆と同じスピードではできませんが、時間をかけて工夫すれば、何でもできるのです。三角形をイメージしてください。3つの点があり、斜めに横切ると目的地に早く到着します。2つの点を通ると遠回りします。見えないと目的地にたどり着くのに時間がかかります。手順を踏めば、皆と同じ目的地にたどり着きます。最近は点字ブロックがあり、それを頼りにして歩くとかなり早く目的地に着きます。
 障害をかかえて生きていかねばならない時、人生もう駄目だ、と思う人があると聞きます。私もどうしたらよいか、自分の人生について考えました。何かチャレンジしようと思うとき、やめておこうか、でなく、やってみよう、と思いました。やらないであきらめると進歩がない。一歩目の足を出す。一歩目とても恐かった。初めての時の不安は大きかった。恐くても、1cmでも前に飛び出せば、ゴールに近づくのです。2歩目は簡単になるのです。
 私は走ることが得意でした。好きでした。走れるようになろう、しんどくても一生懸命やろう、目標に向かってがんばろう、目標を大きく持ち、努力していこう、夢はかなえないと意味がない、と思い、夢をかなえるようにチャレンジしてきました。
 一人でできないことは、支え助けてくれる妻、伴走相手のT君、盲導犬ウィンクがいます。
 全盲クラス100m走、400m走で、私が日本記録を出しました。スポーツには、勝つことを目的にした競技スポーツと、健康や身体のためというエンジョイ・スポーツの2つがあるでしょう。私の場合は勝つことを目的にしていますので、身体に負担のかかるかなりきつい練習をします。やるからには、自己タイムを100分の1秒でも縮め、世界記録に近づくよう挑戦しています。
 国際大会には、マドリードでの視覚障害者世界選手権、バンコクでの障害者アジア大会、シドニーでのパラリンピック、エドモントンでの健常者世界選手権のエキシビション、フランスでの障害者世界選手権、カナダでの視覚障害者世界選手権と出場し、2004年アテネのパラリンピックの日本代表選手として7回目の世界大会に出ています。アテネでは金メダルの夢はかなえられませんでした。しかし世界の強豪選手がひしめきあっている中に自分を置き、競技していると、心の奥底から共に夢をかなえようと走ることへのエネルギーが沸き上がってくるのです。
 金メダルは世界記録の副賞という思いで、志は高く高く持ち、多くの人に支えられながら、努力、研鑚していきたいと、情熱を燃やし続けています。

斉藤 晃司 (パラリンピック出場陸上短距離選手、ブラインドサッカー選手)

(特集-希望の光 6 2004/12/31)

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