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7. 家庭―母親と子ども Ⅳ

 加藤清正の迫害によって、ジュアン南は1603年12月8日に熊本で、シモン竹田は翌日の9日に八代の麦島で斬首されました。 その日の夕暮れ時には、竹田の母ジョアンナと妻のアグネス、また南の妻マグダレナとその養子の7歳のルドビコが捕らえられ、十字架で処刑されることになります。
 処刑まで、祈りながら信仰について語り合い、死の準備をしていました。最初に十字架につけられたのはジョアンナで、気丈に最後の説教をしている時、槍で突かれましたが処刑者の手元が狂います。ジョアンナは「槍がよく通りません」と言いながらイエス・マリアの名を呼び続けていると第二の槍が左の肺を貫き息絶えました。神を語りながらの最後でした。
 ルドビコと母のマグダレナは駕籠に乗って一緒に刑場に向かいました。二人が着くとすでに二人のための十字架が向かい合って立てられていました。十字架につけられたマグダレナを槍は突きますが、処刑者の手元が狂ってしまいます。髪が顔にかかり目を覆ったので「天が見えません」と嘆きました。母親が「イエス・マリア」と言うとその子ルドビコも同じように「イエス・マリア」と息絶えるまで繰り返し唱え続けました。十字架上から神を賛美し、信仰を宣言したのです。母は、子どもにとって真の幸福が何であるかを確信するからこそ、子どもの苦難を共にすることができたのです。子どももまた、母親の祈りと言葉、行いを通して信仰を呼吸しながら培われていたがために、母と共に、そして母と同じようにすることで安心して委ねることができたのです。
 最後は竹田の妻アグネスです。すでに地面に準備されていた十字架に自分の方からつきましたが、縛りつけるために手を出す役人がいません。とうとうある者が進み出て網を締めました。けれども処刑人には槍を突く勇気がありません。他のものが代わりましたが、手が震えるので何度も何度も槍を突くことになりました。
 4人の遺体は、その年の暮れになっても十字架の上にさらされたままでした。雨や風の日に、十字架からこぼれ落ちる殉教者の骨は、三人の慈悲役たちによって拾い集められ、全部が揃った時、有馬と長崎に送られて夫の眠る墓地の傍らに葬られました。 


すべてを神に委ねる人は幸せ。
わたしが打ちのめされようとした時、
神は わたしを助けられた。
神は わたしの力、わたしの歌。
神は わたしの救い。
わたしは死なず、わたしは生きる、
神の業を告げるために。
――教会の祈り 殉教者の詩篇より

参考資料
・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社)
・殉教者を想い、ともに祈る週間(殉教者列福調査特別委員会 編)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)

(特集-日本の殉教者 7 2008/3/28)

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