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岩下壮一神父
岩下神父は、1889年東京妥女町に生まれた。東京大学哲学科を卒業後、文部省在外研究留学生として、パリへ留学、学者として将来を嘱望されていた。しかし、その留学先から大実業家であった父に手紙が届いた。それを読んで彼は次のように語っている。「今日は実に愉快でな。息子から手紙が来たよ。こう言っていた。自分はこれまで学問の道を歩いてきたが、今後は精神界に身を委ね、思想の善導に微力を捧げたい。要するにカトリックの坊さんになるというんだな。わしは言ってやった。大いによろしい。それなら、日本にはライ患者が多い。この方面に尽せとね。その返事が今日到着した。尽せるだけ尽します。こう書いておった。・・・」
1925年、司祭に叙階された岩下神父は、大正から昭和初期にかけて、日本のカトリック教会の代表的存在として活躍した神父である。著書には『中世哲学思想史』『アウグスチヌス 神の国』『キリストに倣いて』『カトリックの信仰』『岩下荘一全集1~9巻』などがある。
帰国後教鞭をとっていた岩下神父が御殿場の神山復生病院院長に選ばれたのは1930年。「彼にはもっと本領を発揮すべき場所も仕事もある」「ライ病院にはもったいない」という声が上がった。しかし彼自身は、前院長レゼー神父から後を託したい旨を度々伝えられていた。同時に亡き父のあの言葉を思い出していたのかもしれない。以前から復生病院に出入りし、度々若い信徒を連れて病院を訪れていた彼は、病院の現実に衝撃を受けている学生たちに言った。「涙を流したって何の役にも立たないよ。それよりここで洗濯でも手伝うんだね。」
キリスト教の説く愛は、ともすれば情緒や感傷にすり替えられかねず、弱者に向けられるのもたんなる憐憫の情や自己満足の施与であったりする自己欺瞞性を、彼の目は見とおしていた。復生病院院長としての岩下神父を特徴づけていたのは、何よりも行動の人としてであった。
就任の時、彼は「主イエズス・キリスト、主は病める者悩める者を特に癒し、これを慰め癒し給いしにより、われその御跡を慕い、ここに病人の快復、憂き人の慰めなる聖母マリアの御助けにより、わが身を病者の奉仕に捧げ奉る。この決心を祝し末永くこの病院に働く恵みを与え給え。」という祈りを捧げている。
「神山へ行ったら、落ち着いて勉強できるよ」と冗談で話していた彼だったが、時間があれば書斎兼寝室で専門分野の仕事を手がけた。加えて熱心に取り組んだのはライについての勉強だった。また病院の増改築を含む設備改善や、運動場作りも手がけた。野球熱が急速に広がっていた頃であり、運動場の話には患者たちも歓声を上げて喜んだ。患者たちの信頼は日に日に高まり、彼は誰からともなく「おやじ」と呼ばれるようになった。
周囲からの大きな期待の中にあって、己のこころの声に身を委ね、幼い頃から不自由であった足を引きずりながら、患者一人ひとりと肉体的、精神的苦しみを共にし、病院改善に尽力し、就任時の祈り通りに生涯を全うした彼は、1940年、霊名のフランシスコ・ザビエルと同じ12月3日に生涯を終えた。享年51歳。
2004年に建てられた神山の復生記念館には、患者の生活の写真や物品とともに、6代目院長岩下壮一神父に関する資料や遺品などが展示されている。
(特集-司祭 6 2010/5/21)