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13. 希望の足音

 私たちは「トウキョウ12」と名乗っていました。カリタス・ジャパンの震災支援活動に参加した、5人の男性と7人の女性からなるグループです。そのメンバーは、中学校の教師から不動産投資マネージャー、そして私のような神学生まで多種多様で、今回ボランティアに参加するまでは見知らぬ者同士でした。

 私はつい最近フィリピンから来ました。「カリタス・ジャパンのボランティアに参加したい?」と聞かれたとき、私は最初躊躇しました。私の日本語はまだ下手だったからです。それでも「行きたい」という気持ちは強かったのです。

 フィリピンでは、自然災害はめずらしくありません。最近では2009年9月にケッツアーナ台風が引き起こした大洪水があります。何百人という方が亡くなり、数干世帯が家をなくしました。このとき、フィリピンでボランティアに参加した経験があるので、今回、日本でボランティアに参加することに、何の違和感もありませんでした。

 「トウキョウ12」は4月5日に釜石に向かって出発しました。私たちは、高台に建っていて津波の被害をまぬがれた小さな修道院に泊まりました。私たちボランティアには、それぞれ3つの仕事が割り当てられました。まず、津波に襲われた近所の家を掃除する仕事。次に、支援物資を仕分けする仕事。最後は、被災者の炊き出しです。

 掃除の仕事はつらくて危険でした。ボランティアは家の中やまわりの瓦礫を除去しなければなりません。厚い木の板や自動車の残骸、水びたしの引き出し、芝生の上に押し流された階段の一部までありました。瓦礫は時に何メートルも積み重なり、ボランティアはショベルや手で掘りすすんで、瓦礫を集積場に運ばなければなりません。中には、海水で錆びたクギの出ている木材を踏んでしまう人もいました。この危険な作業は、果てしなく続くように思われました。

 一日の長い仕事が終わって、汚れた作業着を洗っていたら、一人の シスターが私に「重労働で疲れちゃったでしょう?」と言いました。私は「仕事は本当に大変ですが、私はボランティアなので、休もうと思えば休めるだけましです」と笞えました。実際、一週間後には私は東京で快適に休んでいたのです。でも、地元の方々にはそんな自由はありません。この破壊しつくされた町だけが、唯一の家だからです。

 私の父は子どもの頃、台風が来た後に、ほうきでぬれた道をゴシゴシ掃く音を間くのが楽しみだったそうです。それは、父にとって希望を運んでくる音だったのです。それは、みんなが災害の後片付けを始めたことを教えてくれる音でした。みんなが希望を取り戻して歩きはじめる音だったのです。

 みんなが 未来に向かって希望をとりもどすのを見れば、つらい仕事もなんのそのです。私は80歳の女性の家を片付けていたとき、その女性から恐ろしい被災体験を聞きました。家の物から泥をぬぐいながら彼女を見ていると、彼女は私にほほえみました。私は日本語がそんなに話せないけれど、なんとか慰めの言葉をかけたいと思いましたが、できませんでした。でも、きっと彼女は私の気持ちを分かってくれたと思います。私も彼女のように、希望を取り戻そうとしています。

 これは、「トウキョウ12」のボランティアの心に残ったたくさんの物語のうちの、ほんの一つに過ぎません。私たちには、このような大災害の意味を本当に理解することはできないかもしれませんが、その現場に行くことで、なんらかの形で希望を取り戻す道具となれるのではないでしょうか。私たち「トウキョウ12」は、宗教こそ違ってもボランティアとして、不安な状況に希望の火をともし、知らず知らすに不完全ながらも、神の大いなる希望を映し出す鏡となるのでしょう。

 「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる」(1コリ13:12)

フィリピン人 神学生

(特集-だれかのためにできること13 2011/9/21)

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