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御手の中で

 クリスマスが近づくと、およそ30年前のクリスマス前に「私はまもなく神様のもとに行く」という言葉を残して、51歳で父が天に召された時のことを思い出します。体の弱かった父は十代後半からの6年を病院で過ごしました。その時代に聖書の言葉に出会い、力付けられながら闘病の日々を送り、その後、ある程度は回復し一介の勤め人として生活が出来るようになりました。結婚し、子供ができてからも何度も入退院を繰り返し、自分の命はもうここまでとの覚悟を決めるような出来事を経て、教会に通うようになっていったようです。その昔、母はプロテスタントの幼稚園に、私はカトリックの幼稚園に通っていたので、神様の存在を全く知らないわけではありませんでしたが、その頃はまだ父以外の家族は誰も神様を信じてはおらず、どんなに苦しい時でも穏やかだった父のその生き方が、神様がいつも私達を愛し、見守り、助けてくださるという信仰に支えられていたことに気づくことはありませんでした。

 当時の私たちにとっては、父が亡くなってもう苦しまなくてよいということだけが救いでした。将来天国で再会出来るからといって、大切な人と直接語り合うことのできなくなった悲しみが薄くなることはありませんでした。でも心のどこかに、またいつの日か父と会うことができるという希望が私たちの中に生まれたのも確かでした。

 最近になって父が亡くなる一年ほど前に書かれた文章を読み返す機会がありました。そこには私達にはあまり表さなかった当時の父の心情とともに、父の支えになった数々の聖書の言葉が記されていました。病の苦しみの中、自分の命がいつ取り上げられるかと不安におののいた時には「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。>」(マタイ12・20)という箇所を読んで、今にもなくなってしまいそうな弱りきったものにも神様は心をとめて守ってくださるのだと励まされ、この言葉にただより頼んで歩もうと思えたそうです。そして「わたしの時はあなたの御手にあります」(詩編31・15)という言葉のように、すべてを神のみ手に委ねて生きていきたいと願っていました。

早いもので当時10代だった私も来年には父がその生を終えたのと同じ年齢を迎えます。父が生きる支えとしたこの聖書の言葉を心にとめながら、いつの日かまた父と再会出来る日を楽しみに生きていければと思っています。

(特集-家族と信仰 2 2012/12/7)

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