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4. 環境サミットに思う

 地球温暖化が急速に進んでいることは目に見える現象として映像やデーターで突きつけられていながら、私たちにはどこか人ごとのような、日常の暮し方とは離れた次元でしかとらえないところがあるように思います。しかし今年の異常な暑さといい、大洪水、旱魃、砂漠化など地球規模の異常気象はこの問題が差し迫っているという危機感をかきたてます。
 この危機感を持ち寄って世界各国からヨハネスブルグに集まって「持続可能な開発に関する世界サミット」(環境開発サミット)が開かれました。9月4日に閉幕し、実施文書が採択されましたが、案の上、各国の利害関係や国策などで足を引っ張り合い、その成果は期待に添うものではなかったように思います。特に残念だったことは、太陽光や風力など再生可能エネルギーは高い目標値をかかげて世界中で競い合うほどの機運を作り出してもらいたいと強く願っていたのに、なぜかできなかったことです。それも日本とアメリカが反対の中心的役割を果たしたことには失望しました。世界のレベルでも小さな一個人のレベルでも利害のからむ方向転換は難しいことを実感しました。
 便利で快適な生活を、大量生産大量消費で追い求めてきた私たち先進国といわれてきた者は、ここにきて自分たちの生み出したものの害悪に気づいています。気づいていながら変える事は難しい、やはり環境より経済なのでしょうか。効率なのでしょうか。一つの例が、家庭ゴミや産業廃棄物の焼却がダイオキシンを生み出したといえば高価な大型溶融炉を開発誘致するといったやり方はいち早く進められ、大量廃棄の構造は変わらないのです。少し前、私は日の出町のゴミ最終処分場の反対運動に関わり、みじめな敗北感を味わいました。向かってくる大きなブルドーザーにつぶされたのです。しかし考えてみれば、手軽さ、便利さ、儲かる事、安い事ばかり追い求めた自分たちの生きかたのツケにつぶされたのです。
 私は15年くらい前からお年寄りのための食事サービスボランティアをしています。たくさんの食材から生ごみや包装のごみが出ますが、横浜市はビニールも発泡スチロールも何もかも一緒にビニール袋に入れて出せば回収してくれます(ビン、缶だけは分別ですが)。一見ありがたいようですが、ここでいつも気をたしかに持たなければなりません。
 時間に追われる大忙しのなかですが、小さな異物を入れないように肥料になる良い生ごみを分別すること、ビン、缶、発泡スチロールは洗ってリサイクルに、ダンボール・紙類も捨てないように。しかしこれも少し気が緩むとごみ袋は一つになりあっという間に集積所に行ってしまっています。お弁当箱も便利な使い捨てのプラベンは使わない原則ですが、中には回収が難しい方のためにプラベンを使います。気をゆるすといつの間にかその数が増えています。お弁当箱は洗浄、消毒など大手間です。皆で気をつけ合って「手間をかけていこうね」といつも話し合っています。こんなことがそれぞれの家庭での暮し方にも響いていくことを願っています。
 地球規模のサミットでの環境問題は大き過ぎて、小さな一人の気づき、行動など何にもならないような無力感におそわれます。それでも出来ることはしていきたいのです。
 「わたしは… 生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたはいのちを選び、あなたもあなたの子孫もいのちを得るように」(申命記30:19)。最近いただいたみことばです。
 「いのちをえらびなさい」と言われる神の呼びかけに応えたいと思います。
この選びが暮し方であり、反対運動の署名、カンパ、国会請願、デモ参加などにつながるはずです。祈りも無関係ではないと感じています。いや、祈りが出発点でしょう。

時政 松枝

(特集-地球環境 4 2002/9/20)

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