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2. 神と自然との和解

 福音書には「神の国は近づいた。悔い改めよ。」というイエスの言葉が度々記されています。今でも、強い、厳しい響きをもって人々の心に迫ってくる言葉です。悔い改めることは神と和解すること、神に立ち帰ることです。
  神と和解するとは、自己中心の生き方を神中心の生き方に変えることであり、それは愛を生きるということです。自我や自分の欲望のままに生きるのではなく、毎日の具体的な場で愛に生きる人になり、自分を大切にし、隣人も自分と同じように大切にしていくこと、そして自然を愛し、自然と共に生きる道を探していくことでしょう。
 現代社会では、技術・経済・政治的価値に多大な配慮を示しつつも、精神的、倫理的な価値については、個人的な生活においても社会的生活においても、しばしば忘れ去られています。
 神は人と世界について計画を持っています。神は人間の幸せを求め、人間同士、また自然との関わりを通して、平和のうちに幸せな生活を送ることができるように望んでいるのです。
しかし、人間は自らをコントロールできず、破壊的な生き方を止められずにいます。そして神を無視しつづけ、感謝することもなく、み言葉に耳を傾けようともせず、生きる方向を見失っている状態です。
 私たちは神との和解を必要としているのです。しかし、この和解は真理を土台とし、正義によって築きあげられ、愛によって統合される自由な行いによってのみ推進されるものです。真理と正義、愛と自由のないところに、真の平和と和解はあり得ないのです。日本の社会が、この点において、直接的にも間接的にも、神のみこころに反している現状を痛み、赦しを願い、神の平和が広く行きわたるよう努めていきたいものです。

 ところで、自然は神につくられたものであり、現在だけでなく、次世代にも、より人間的、精神的な生活を営むことができるために必要な環境です。
 パウロは、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。…神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれることを希望しています」と言っています(ローマ8・19-22)。自然は神の栄光のあらわれです。にもかかわらず、日本の最も美しい伝統の一つである自然を愛することや、自然を観想することなどは、今大きな危機に瀕しているのです。
 人間は自然や環境の保護を神からゆだねられていますが、便利で快適で楽な生活を求める物質文明は地球規範の深刻な環境破壊を招いています。今の文明を押し進めていけば、人類はやがて滅んでしまうでしょう。そこで、人為的な環境破壊や自然に逆らった行いを反省するだけでなく、救いの歴史の中で、神の国の場として、私たちと深いつながりを持つ自然界の役割を信仰の目をもって見る心を養いたいものです。
 神と自然との和解を考えるとき、私たちは神の前に、いかに大きな負い目を負っているかに気づき、深い痛悔の念を覚えます。この痛悔を伴った和解こそが、今、求められていることではないでしょうか。

(特集-和解 2 2003/3/7)

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