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13. 神に向かってひたすらに Ⅰ

レオ税所七衛門敦朝
(さいしょしちえもんあつとも)

 レオ税所七衛門は、都城(宮崎県)に生まれ、北郷加賀守三久の家来として平佐(鹿児島県)に移りました。そこで一番親しい友人であった信者のパウロ吉右衛門によって、はじめてキリスト教に出合います。当時は厳しいキリシタン迫害の中、北郷加賀守敦朝も家臣がキリシタンになることを強く禁じていました。それにもかかわらず、「自分でもよく分からないが、近頃神のことばかりが脳裏をよぎる」「たとえ生命を失うようなことがあっても、私を教会から離れさせることはできません」と内面からの促しに導かれて歩みます。「キリシタンになれば殿に殺されるかも知れません。よく考えなさい」との神父の助言にもかかわらず、生命の危険を承知の上で1608年7月22日に受洗。ハシント・アルファネル神父は「レオは穏やかな性格で、口数が少なく、その行動は慎み深い。背が高く、痩せているがたくましく日焼けした、柔和な武士だった」と紹介しています。
 北郷三久は、命令に背いて洗礼を受けた者がいることを知って怒り、信仰を捨てさせようと迫害をさらに強化します。しかし棄教を迫る役人に「他のことならば、すべてに従いますが、救霊に関わることだけは受け入れることはできません」といつも夕凪のように穏やかに答え、また心配する三日三晩の親戚友人の説得にも心は変わることがありません。
 遂に処刑が決定され、処刑人が来て切腹を命じますが、「キリシタンである私は、自らの命を立つことはできない」と断わり、妻と二人の息子に別れを告げ、友人パウロに「わたしは先に天国へ行き、そこで待っています。必ず来てください」と伝えています。家の前の辻を十字架と見たてて正座し、白装束を着、手にはロザリオを巻き、キリストのご受難のメダイを懐にいれ、静かに祈った後、首を切られました。1608年11月17日の朝、夜が明ける頃のことでした。
 受洗から殉教まで、その間、僅か4ヶ月足らずでした。
 「神の慈悲がその心に触れた人のようだった」(セルケイラ司教)

参考資料
・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)
・恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社)

(特集-日本の殉教者 13 2008/6/20)

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