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15. 神に向かってひたすらに Ⅲ

フランシスコ遠山甚太郎
(神の平和の道具)

 フランシスコ遠山甚太郎は1600年、甲斐の国(山梨県)の浅野幸長の家臣の子として生まれ、主君の移動により、紀伊国(和歌山県)広島と移り住むようになります。浅野幸長は自分の病気が日本人の医者では治らず、フランシスコ会の修道士の治療によって癒されたため、宣教師やキリシタンを寛大に扱いました。そのため和歌山では慈善事業を活発に行うことができ、治療院が開設され、キリシタンも増えて教会が誕生しました。
 甚太郎は、アシジのフランシスコの精神に心を奪われ、すでに弾圧が始まっていた時勢の危険を熟知した上で1616年、フランシスコ会のアポリナオ・フランコ神父から、フランシスコの名で受洗しました。16歳でした。やがてフランシスコ会の第三会「帯の会」に入り、その精神に燃えて病人を看病し、貧しい人を助け、自分は質素な生活を貫く一方、宣教師からポルトガル語を学び、日本語に訳されていない書物を読んではイエスの教えを分かりやすく人々に教え伝え、和歌山教会の支柱とし活躍しました。
 1619年、19歳の甚太郎は、主君浅野長晟(ながあきら)と共に広島に移ります。1623年、三代将軍家光が寺受け制度を発布しキリシタン禁制の徹底を目指す中、甚太郎は表向きだけでも改宗するようにと再度説得されますが、「主君である殿に万事忠誠を尽くす覚悟だが、キリストの法に背くことだけは譲れない。」と揺るがぬ信念を貫いたため、1624年2月16日に死刑の宣告を受けることになります。長い間心の準備し待っていたその“時”を甚太郎は喜んで迎えました。切腹の命に対しては、キリシタンには、自ら命を絶つことは許されないと辞退し斬首を願います。処刑の前に、母と妻にイエスへの信仰を守るように諭し、右の手に十字架を、左の手に祈祷書を持ち、聖母マリアの聖画の前で落ち着いて祈りながら跪き、頭を垂れて平和に24歳の人生を全うしました。
 甚太郎の燃える情熱は、常に深い平和と静けさ柔和に覆われていたといいます。

参考資料:
・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社)
・キリストの証し人 フーベルト・チースリック著(聖母文庫)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)
・恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社)

(特集-日本の殉教者 15 2008/7/18)

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