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7. 私たちのコンパッション
ニーチェにとって、コンパッションは奴隷の倫理で、それは弱者だけにふさわしい態度だと彼は言いました。しかし、人はコンパッションを通して、本来の自己のまったき充満に達するのです。ダライ・ラマが言っているように、「宗教の完璧な目的は、愛とコンパッションをもたらす」ことです。
イエスは、コンパッションを大切にするように教えられただけではなく、ご自分の態度によって、当時一番疎外されていた人、すなわち子供、女性、罪人を、深い慈しみをもって受け入れてくださいました。
例えば、イエスに触れていただくために人々が子供たちを連れて来たとき、弟子たちはその人々を叱りました。しかしイエスは憤り、弟子たちに、「子供たちを来させなさい」と言って、子供たちを招き寄せられました。そして、子供を神の国に入る人の模範にして、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と言われたのです。
また、イエスの時代にユダヤ人の社会は男性中心で、女性が男性と同じような立場に立つことは認められませんでした。女性はトーラーを勉強することができませんでしたし、会堂で聖書を朗読することも、歌うことも許されませんでした。家で家事をするしかなかったのです。また、裁判の時、女性が証人として認められることはありませんでした。
しかし、イエスは、女性を男性と同じように受け入れ、助けていました。長年出血で患っていた女性に触れられても、責めることなく、彼女を癒されました。また、姦通の現場で捕らえられた女性を助け、彼女を罪に定めませんでした。そして、一人息子を亡くしたナインの未亡人を憐れに思い、息子をよみがえらせ、母親に返しました。さらに、サマリアの女と井戸のそばで一対一で、公に話し、彼女を諭して、信仰まで導いてくださいました。
イエスの時代には、子供と女性のほかに、徴税人と罪人が疎外されていました。イエスはこれらの人々を受け入れ、彼らと食卓に着いていたので、ファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエスを批判しました。ところが、イエスは、徴税人のザアカイを招き、また徴税人のマタイを弟子に呼ばれたのです。また、たとえ話の中で、ファリサイ派の人ではなく、徴税人の方が、神の憐れみと赦しを受けるのに値すると言われました。
金持ちとラザロの別のたとえ話では、当時の常識をこえて、できものだらけの貧しいラザロが、天の国に入る人の模範になっています。
イエスは、一般の人が軽蔑し、疎外していた人々を、憐れに思い、暖かく受け入れ、社会の一員として、天国の候補者として、認めてくださいました。
今、私たちのコンパッションを必要とする人は、誰でしょうか?
(特集-コンパッション 7 2004/1/9)