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18. 許された愛に生きて Ⅰ

―天草の殉教者アダム荒川―

 アダム荒川は、故郷が島原半島の荒川であったことからこのように呼ばれることになったという。荒川城主として有馬晴信の兄弟アンドレア掃部(かもん)が支配していた頃、アダムはその家臣だった。30歳の頃、大きな過ちを犯し、手打ちになるところを有馬のイエズス会士モーラ神父のとりなしで助けられた。やがて自分の犯した過ちを後悔し、神の許しを体験し、神と人とに捧げるしるしととして剃髪し、再び生きる者となっていった。
 有馬領の数ヶ所の教会で働いた後、1590年頃、天草の諸教会の中でも特別な役割を担っていた志岐の教会へ派遣された。1614年1月14日、宣教師追放令が発布され、志岐のガルセス神父はあわただしく長崎へ立たなければならなくなり、アダムに志岐の教会の世話を頼んだ。この依頼を喜んで受けた荒川は、幼児に洗礼を授け、病人を見舞い、死者の埋葬、迫害の勃発に動揺する信徒を励ますなど献身的に祈りと奉仕の日々を送っていた。
 「天草領内のキリシタンすべてに信仰を捨てさせるように」という厳令にもかかわらず、天草のキリシタンたちは、アダムを中心に結束していた。富岡城番代川村四郎左衛門は、アダムが信仰を捨てれば後は簡単だろうと考え、アダムを呼び穏やかに棄教を薦めたが無駄であった。「神に背け、自分の神を辱めよと申されるのか。天下の将軍のご命令であろうともそれだけはご勘弁なされたい。どのような責苦を受けようとキリスト様に背くことはでき申さぬ」と答える。
 四郎左衛門は、遂に信者への見せしめにアダムを拷問にかけた。裸にして町を引き回して辱め、二本の丸太に縛り、3月の冷たい風に9日間もさらしものにした。この拷問も無駄であると分かると次は狭い部屋に60日間監禁されるが、アダムは静かに黙想と祈りの日々を過ごせると喜んだ。長崎の教会が破壊され、司祭は一人残らず追放されると告げられると「私の希望は、石や土でできた教会、追放されていく司祭、また時により移り変わるものにあるのではありません。ただ神にのみ希望をかけているのです。」と答えた。
 遂に1614年6月5日、人目を避けてアダムは斬首され、遺体は重石を付けられて湾外の海中に沈められた。「アダムの死は、人々を感動させた。弱さの故にキリシタンを捨てた人々が、アダムの薦めと模範によって信仰を取り戻した。」とマトス神父は報告書している。
 神の愛、赦しを体験したアダムは、謙虚に奉仕の道を歩み、「神を愛するものたちにとって万事が益となる」という福音を生き証した生涯だった。

参考資料:
・恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社)
・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)

(特集-日本の殉教者 18 2008/8/29)

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