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21. 迫害下の教会で司祭として Ⅰ
―深い信頼、祈り、忍耐を生きたジュリアン中浦神父―
中浦ジュリアンは、1567年、キリシタン大名大村純忠の家臣、西海(長崎)の中浦城主の一人息子として生まれ、12歳で有馬に開校されたセミナリオの一期生として入学。
1582年、マンション伊東、ミカエル千々石(ちじわ)マルチノ原とともに4人の天正遣欧使節の一人として選ばれ、グレゴリオ13世に謁見し、8年後に帰国。 4人は豊臣秀吉に招かれて西洋楽器を披露する。ヨーロッパ文化に興味をもつ秀吉は、彼らを家臣にと希望するが、イエズス会への入会を熱望していたために丁重に断わられる。
1591年、イエズス会の修練院に入る。 初誓願宣立後、天草のコレジオ、マカオのコレジオで神学を学ぶ。同期の仲間たちが次々に司祭に叙階される中、ジュリアンは、理由も分からないまま延期されている。 セミナリオに入学してから28年目の1608年、遂に39歳で司祭に叙階される。忍耐をもって長い間待つことにより、深い信頼とひたむきな祈り、自分の人生を神と人に捧げる決意は堅固にさせられ、不屈な司祭の誕生となる。
1614年に徳川家康の大禁教令が出る。それまで目立つことのなかったジュリアンは、イエズス会内で潜伏司祭に選ばれ、口之津を根拠地として九州各地の信者の世話に奔走する。「毎年告解する4千人以上の信者がわたしに任されています。一時といえども休息できません。この手紙をかいている最中に、信者が飛び込んできて、もっと安全なところに逃げるようにと知らせてきたのです。」(総長顧問マスカレニャスへの手紙)
1632年、遂に、小倉で捕らえられて長崎に護送される。投獄された長崎の牢には、マカオで共に学んだ仲間たちがいた。奉行は、ジュリアンの棄教を切に望み、10ヶ月間責苦を与え続けるが棄教せず、33年10月18日、手を縛られ、西坂の刑場へと向かう。内臓が下がって早く絶命しないように全身を縄できつく縛られ、3メートル程の穴に逆さに吊るされる、さまざまな拷問の中でも特別に苦しい穴吊の刑に処せられて他の7名と共に殉教。4日間の壮絶な苦痛に耐えた21日、「この大きな苦しみを神への愛のために」との最後の祈りで息を引きとる。享年64歳だった。
遺体は焼かれ、灰はローマ、マカオへと旅立ったその同じ長崎の港の海に撒かれた。
参考資料
・一八八まるちれすの地を訪ねて カトリック生活2008年3月(ドン・ボスコ社)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)
・恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社)
・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社)
・殉教者から現代人へのメッセ-ジ 福音宣教 2008年4月号
(特集-日本の殉教者 21 2008/10/10)