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24. 迫害下の教会で司祭として Ⅳ

―世界的視野の中で雄大は信念を貫いた ペトロ・カスイ岐部神父―

 「名はペテロ・カスイ、父ロマノ岐部と母マリア波多の子当年33歳。生まれは日本豊後の国浦辺」(1628年入会履歴)1587年、熱心なキリスト信者の両親の子として誕生。
 13歳で長崎のセミナリオに入り、6年間、キリスト教精神における人格形成、東西両文化に通じるキリシタンのリーダーを目指す全寮制による養成を受ける。卒業と同時にイエズス会入会を希望するが許可されなかった。後にイエズス会に入会が許される事になるが、その時の履歴書に「入会の動機は、私の自由な決心である。すでに14年前に、自分から進んで願を立てた。」とあるように、その時、すでに私的誓願を立てている。
 1614年、司祭として同胞に尽したいという熱望に駆られ、27歳で禁教が敷かれた日本を離れてマカオへ行く。しかしそこでもイエズス会への入会は叶わないばかりかセミナリオも閉鎖されたため、インドへ行く。しかしそこでも受け入れられないため、唯一残された司祭の道、ローマ行きを決断する。マホメット教徒の間に混じり言葉が通じないばかりか、全く未知の砂漠、パキスタン、イラン、イラク、パレスチナを通り、まさに命がけの大冒険をしながら遂にローマに到着する。
 彼は司祭叙階のために必要な書類も証明書も持っていなかったが、ローマは、彼の人物と堅い決心を見て叙階許可を与え、1620年11月15日に叙階される。20日には念願のイエズス会修練院に入る。そこで、イエズス会創立者聖イグナチオと聖フランシスコ・ザヴィエルの列聖式に与り、また後に列聖されることになる聖ヨハネ・ベルクマンスと有名な教会博士聖ロベルト・べラルミノ、この2人のイエズス会士の最期を見ている。
 絶えず同胞のために働くという熱い思いのある岐部神父は、日本の状況を知れば知るほど帰国したいという望みに駆られ、修練半ばで祖国へ帰る許可を得てローマを発つ。 ポルトガルのリスボンに着き、そこのイエズス会修練院で修練の期間を終了し、1622年11月21日に誓願を宣立。その後、リスボンからマカオ、マラッカ、シャム、マニラを経由しながら、ローマ行き以上に言語に絶するあらゆる苦難と試練に遭遇しながらも、遂に1930年7月、16年ぶりに祖国の土を踏む。
 潜伏して迫害下の信者の世話を続けること9年間、しかし密告によって捕らえられる。三代将軍家光と重臣直々の審議は、岐部にとって最高の証しの場となった。 1639年7月頃、穴吊りの刑により処刑される。
 「自分の召命に満足しており、また自分の救霊および同胞のそれのために進歩したいという大きな望みをもっている。」(1628年入会履歴)と表明された彼の熱望は「キベヘイトロは転び申さず候。吊るし殺され候。同宿ども勧め候ゆえ、キベを殺し申し候」とある記録によっても達成されたことが証明された。
 17世紀最大の国際人、如何なる障害にも屈せず強い信念をもって課された使命を全うしたペトロ・カスイ岐部神父は、「一粒の麦として地に落ちて死に、豊かな実りを結んだ。」

参考資料
・世界を歩いた伴天連 ペテロ・カスイ岐部 フーベルト・チースリクsj 著(イエズス会管区長館)
・恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社)
・神への一筋の歩み ペテロ岐部カスイ略伝 五野井隆史(カトリック生活)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)
・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社)
・世界を歩いた伴天連 ―ペテロ岐部の生涯―(御心の使徒 1961年 別冊)

(特集-日本の殉教者 24 2008/11/21)

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