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5. 野宿者支援の中で
私は5年半前からある野宿者支援の活動をしています。洗礼を受けて2年目くらいでしょうか。霊操に出会い、今まであまり行動的でない自分が変えられたような気がします。始めの一歩や半歩を踏み出す勇気をいただいたような気がします。今では、ある人は私を行動し過ぎと言う人もいます。しかし落し穴もあります。貧しさを選んでいるつもりの野宿者支援の活動も、あまりに活動が中心になっているときは、自分が神から離れているような気がします。野宿者を訪問する活動は一歩を踏み出してしまえば、ある意味では容易とも言えます。与える立場にいる安心感、気づかない上下関係、満足感など、良い気持ちになりやすい部分もあるからです。この実感は神から離れている状況だと思います。私のこの心の動きを察したかのように、ある野宿者から手紙をもらいました。私の心に衝撃を走らせた、そのメッセージを分かち合いたいと思います。
「私はあなた方に対して、意見や要望ましてや不満などの気持ちを抱くこと自体が間違っているという気がしています。あなた方は無報酬で、自らの貴重な時間と労力を毎週土曜日ごとに提供して下さっているのに、どこに私が文句をつけることができましょうか。私たちはただ、口を開けて待って、与えられる物をありがたく受け取り、恩を感じていれば良いだけの存在だろうと。ボランティアの無償の行いに不満を感じるのは間違っていると思うそばから、憂いや憤りを胸の中に留まらせているのも事実です。おそらく、そういう人は自分の中の善意にしか気づいていないだろう。私たちが保護者を必要とするヒナ鳥ではないということにも、気づかないだろう。善意が人を傷つけることもあるなんて、思いもしないのだろう。私はいつも思う。ボランティアに、ほんの少しでもどこからか報酬が支払われていたなら、と。それならば私は遠慮会釈なく、本心を吐露できる。あなた方に対する憤懣やるかたない思いも、包み隠さず述べるだろう。「無償の行為」という、そんな善意に包まれた行為に、私はいつまで首を縦に振り続けなくてはならないのか。」
とても厳しいメッセージですが、このように厳しいことを気づかせてくるのも神様です。
いろいろな事を通して気づきを頂く恵みを感じています。
先週のことでした。G町の高齢者センターの前で53才の方が肺炎で苦しんでいました。C福祉事務所から救急車を要請し、乗ってから病院を3件たらいまわしの末、最後の病院で点滴1本をうって薬さえもらえず、入院できませんでした。翌朝また病院探しの結果、ようやく2日がかりで入院できました。この厳しさの中で、「寒くない場所でゆっくりできます」とようやくホッとした顔を見て、神と一緒にいる気持ちになります。振りかえってみると、厳しい暗闇の中で光るものが実感できたときに、神はいると思えます。会社人間だった私は考えることはできますが、感じることが苦手です。そのため霊操を始めたときにヘルパーから子供になったつもりで詩を作ることを進められました。その時のひとつを最後に分かち合いたいと思います。
「雪あかりの夜道で
泥にまみれた雪が
月明かりでキラリと光る
多くの人に見過ごされ
この輝きを誰も気づかない
わたしも泥にまみれても
イエスの光りによって輝き
生きていきたい。」
(T.I. 男性 62歳)
特集-闇の中の光 5 2006/1/13)