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15. 飢餓と福音宣教(2)

――第41回国際聖体大会(1976.8.2)における基調講演よりの抜粋

 私たちに何ができるでしょうか。・・・福祉活動は今もきわめて重要な必須条件であっても、今日の世界はそれだけで十分とはいえません。貧しい人、飢えた人は、単にチャリティーの施しを私たちに求めているのではなく、あらゆる形の不正・抑圧に対する彼らの正当闘争への積極的支持を求めているのです。私たちの聖体中心の参加行為は、新しい形の連帯、困窮者とのより深い同化・一致へと私たちを招いています。
 これは、政治的・経済的・社会的な種々の分野における行動を要求する、はるかに厳しい任務です。世論は教育され、動かされなければならず、偏見や無関心の障壁は打破され、政治家と立法者は行動に駆り立てられなければなりません。こうした仕事の多くは味気なく、しばしば報いのないものです。けれども、目に見える結果を得ようとするなら、どうしても不可欠なことなのです。その上、世界正義のために尽くす私たちの行為が大きな代価を求め、種々の個人的・共同体的犠牲を強いるようになる時があるかもしれません。このような場合、信仰のために苦しみ、イエスの名においてそうすることを光栄とみなしていた初代キリスト者から、勇気を汲み取ることができるのです。(使徒言行録5・41-42参照)。
 初代キリスト者の聖体中心の共同体は、人間を単なる道具としてではなく、それ自体で愛されるべき、そして仕えるべき人格として扱いました。正義のために私たちが行う活動、私たちの動機・行使手段・追求目的のすべても、この同じ愛の精神で貫かれ、特徴づけられなければなりません。
 このようなことは現在、多くの人々には理解し得ない事柄です。・・・なぜなら、自己犠牲と愛という福音的メッセージは、まことに人を戸惑わせる逆説的なものであり、不可解なことでさえあるからです。・・・これが、私たちキリスト者がこの地上に提示しなければならない解決なのでしょうか。答えは「しかり」です。その理由は簡単です。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(一コリント1・25)。十字架は、信仰と愛のない人にはまことに狂気であり、愚かさであり、つまずきの石です。しかし、信じる者、愛する者にとっては、力と救いの源となるのです(同1・23)。この世界の問題を解決するのに、安易で苦しみのない方法はありません。が、愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(一コリント13・7)のです。愛なしには、飢えた人々に食物を分け与え、より良い世界を築こうとする私たちの努力は、ことごとく無益です。しかし愛があれば、私たちに反対できるような権力も組織もこの地上には存在しません。愛のみが人間を本当に自由にしうる唯一の力なのです。愛は、新しい世界秩序建設の唯一の根本的な不可欠条件です。
 ・・・この愛をすべての人々と、特に貧しい人、飢えた人と分かち合いましょう。その時初めて私たちは、イエス御自身が本当に貧しい人、飢えた人そのものとなっておられることを体験するでしょう。彼らの内にキリストのみ顔を探す時、私たちはキリストを真に知るようになるでしょう。

(特集-アルペ神父 15 2006/9/8)

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