10月27日 年間第30主日

第一朗読  シラ書 35:15b-17、20-22a
主は裁く方であり、人を偏り見られることはないからだ。貧しいからといって主はえこひいきされないが、虐げられている者の祈りを聞き入れられる。主はみなしごの願いを無視されず、やもめの訴える苦情を顧みられる。
御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、その祈りは雲にまで届く。謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、正しい人々のために裁きをなし、正義を行われるときまで。

第二朗読  テモテへの手紙 二 4:6-8、16-18

(愛する者よ、)わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

福音朗読  ルカによる福音書 18:9-14
(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

祈りのヒント
祈るため神殿に昇っていく二人の人がいる。イエスはこの二人の姿を通して、神との関わり、弟子の祈る姿勢について教える。話の主人公はファリサイ派の人と徴税人の二人である。ファリサイ派とは律法を守ること、特に安息日、断食、施し、宗教的な清めを強調したグループであった。ファリサイ派の人々は当時の一般のユダヤ人から非常に尊敬されていた。

徴税人はローマ政府あるいは領主ヘロデから委託され、税金の取り立てをする。異邦人である外国の支配者のために働くばかりでなく、割り当てられた税額以上の金を取り立てて私服をこやすという理由で、ユダヤ人から憎まれ、罪人と同様にみなされた。

このファリサイ派の人は律法が要求する義務を十分過ぎるほど完全に果たしている。彼は祈りのなかで、自分が他の人のように悪いことをせず、良いことを行っていると自信満々である。自分を他者と比較し、他者を見下し、さらにその姿勢を正当化している。このような祈りは神の前で義とされない。徴税人は自分が罪人であることを謙虚に認め、神の憐れみによってのみ、義とされると告白している。

シエナの聖カタリナは、中世期の教会の“暗い時代”に生きていた、しかし彼女は、やもめや徴税人のように気を落とさずに祈った。「父なる神、あなたは不正な裁判官ではないし、私たちの時代の教会のニーズをよくご存じ。あなたは力を持っているし、人々の救いを望んでおられるから、私たち(の教会)を変えてくれると信じている。でも、神様、もう延ばさないで、今すぐ、私の祈りに応えて下さいね。」
イエスは、「義とされて家に帰ったのは、この徴税人であって、あのファリサイ派の人ではない」と言われた。自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスはこのたとえで語られる。「誰であれ高ぶる者が弟子の祈りの姿勢を持つことはあり得ない。」イエスにとって神の前で、自分の成績を自慢し、自己主張することは祈りではない。

わたしは祈ります神様、わたしたちにやもめや徴税人の心をお与えください!

(日曜日のみことば 2019-10-27)

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