9月13日 年間第24主日

第一朗読  シラ書(集会の書) 27:30-28:7

憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪人にはこの両方が付きまとう。復讐する者は、主から復讐を受ける。主はその罪を決して忘れることはない。隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。人が互いに怒りを抱き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったいだれが彼の罪を赦すことができようか。自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ。滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。いと高き方の契約を忘れず、他人のおちどには寛容であれ。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 14:7-9
(皆さん、)わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

福音朗読  マタイによる福音書 18:21-35
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

祈りのヒント
今日の福音で、イエスはたとえで天の国はこういう所だと語って下さっています。このたとえの中に王と家来がでてきます。家来は王に沢山の借金をしていますが、王は家来の辛さを見て憐れに思い、赦し、借金を帳消しにします。
「帳消しにする」というのは、すごいことです。
王自身も、この家来の借金のために辛い思いをしていたに違いありません。しかし、自分の辛さよりも相手の辛さを思う心が遥かに大きく、王は帳消しにします。しかも、全部の借金を帳消しに。このような王の思いは、天の御父の思いだとイエスは伝えて下さっています。
しかし、私たちは自分のいたらなさを神さまから帳消しにして頂き、その恵みの上にさらに恵みを頂いて生きているにも拘わらず、他の人のいたらないところが目に付くと、容易く咎めてしまう弱さを持っています。その私たちの弱さをよく知っておられるイエスは、あえて、このたとえの終わりにこう語り、呼びかけられます。
「わたしがお前を憐れんでやったようにお前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」
イエスにとって憐れみの心で生きるということは、他の人を“自分の仲間と思う”ことにつながることを意味しています。私たちが、イエスの呼びかけに応えることができた時天の国の到来が、確かに、私たちの間にあるのでしょう。
御国がきますように。
御心が行われますように。
天におけるように地の上にも。
(日曜日のみことば 2020-09-13)

ページ上部へ戻る