2019年2月  2.固有の召命
 日本の教会は、意向として「召命」を取り上げ、「それぞれの場、それぞれの仕方で神の呼びかけに応えていくことができますように」と祈ることを勧めています。
 今から50年ほど前に教会の現代化(アジョルナメント)が行われた第2バチカン公会議では、教会での信徒の召命と使命について審議し、「信徒使徒職に関する教令」を発表しました。そこには、「教会には種々の異なった任務があるが、その使命は一つである。使徒とその後継者は、キリストから、その名とその権能によって教え、聖化し、統治する任務をゆだねられた。一方、信徒は、同じようにキリストの祭司職、預言職、王職に参与するものとされ、神の民全体の使命の中で自分なりの役割を教会および世において果たしている」と記されています。つまり、司祭、修道者だけではなく、キリストの弟子となったすべての信徒一人ひとりには、その人にふさわしいその人なりの使命が与えられていることを、公会議は宣言しているのです。「自分なりの役割」が何であるかを見極めるためには、祈りの中で神と対話し、神が私に何を求めているのかを聴くことが大切です。ペルソナ(人格)としての神は私の人格に、個別に語りかけてくださるので、深い祈りの中で小さな心の動きにも気づくように、心を柔らかくして研ぎ済ませ、その意味を感じ取ることが求められます。
 このような祈りの中で、神はキリストに与えられたこの世を聖化し統治する職務のうち、「あなたにはここをお願いしたい」と語りかけてくださるのです。これが私に与えられた「固有の召命」であり「固有の使命」です。(このサイトの2015年1月 5.「召命と使命」の項も参照してください)
 それは、具体的な職業として示されることもあるでしょう。しかし、多くの場合、それは生き方の姿勢として与えられます。例えば、苦しんでいる人とともに歩むこと、とか、知恵を尽くして神の偉大さを人々に示すこと、いやしの業を手伝うこと、など、キリストが人々の救いのためになさったことの一つの領域として示されます。私たちは万能ではありません。愛された罪人です。キリストのように神の思いのすべてを行うことはできませんから、人々に向かうときの生き方の姿勢を、個別に示してくださるのでしょう。
 日本の教会の意向の中に記された「それぞれの仕方で神の呼びかけに応えていくこと」ができるように、公会議文書の「自分なりの役割」を、祈りのうちに探し求め、また祈りのうちに確認する一週間といたしましょう。