2020年2月  4.貧困
 今月の教皇の意向で取り上げられた人身売買の犠牲者についても、また日本の教会の意向である子どもの成長においても、そして、この2つの特化された問題領域のほかにある、苦しみや痛みを伴う数え切れないほどの社会問題においても、その根底にはつねに貧困が潜んでいます。満足な食事もとれないほどに困窮すると、それは飢餓に連なっていきます。
 なぜ、富める人がいて、一方で貧しい人がいる社会が生まれてしまうのでしょうか。人類が社会的な営みを始めてから数十万年の間ずっと、貧困が存在し続けてきたのです。そしてこの貧困は、今日の社会システム、つまり資本主義を基本とした経済システムと民主主義を基盤とした政治システムの枠の中だけでは、解消することができない厄介な課題なのです。なぜならば、長い歴史の中で人類がやっと手にすることができた人権と裏腹の関係にあって、人権に裏付けられた個人の自由度が増せばそれだけ、自由の発揮の中に隠された利己的な意識が実際の行動に反映され、すべての人が豊かさに向かって競争してしまうからなのです。ですから、平等になるようにと公正な仕組みを作っても、その人が置かれた状況によって必ず不平等が生じてしまう、堂々巡りが起きてしまうのです。
 貧困の最も根源的な原因は、分配の公正さにあります。人々が納得する正義と平等は、社会システムの中に組み込まれています。自由な経済活動を野放しにしていれば、富める人はますます豊かになり、貧しい人はさらに乏しくなりますから、経済政策といった社会の仕組みで富の偏りを制限し、そのゆがみを税の仕組みで社会に還元しています。でも、貧困はなくなりません。1993年にフランスの経済学者ピケティ氏は「富の再分配の理論についての考察」という論文を著して現代のグローバル化した経済のあり方に警鐘を発したことは記憶に新しいのですが、解決へ向けた氏の提案は世界平和を前提にしたもので、今現在その実現は夢の中と言わざるをえません。
 正義は人々を公平に扱うための基準となるものです。そして、その正義とはまったく違う基準に、「神の義」があります(2019年12月3.「神の義」参照)。人間の目に不平等に映ることでも、神はそれを「義」とするのです。ここに神が示す「分配の公正さ」があります。言ってみれば、貧しい人から優先的に分配を始めるという「義」です。それは、使徒の共同体の中で営まれた「義」です。
 貧困の解決に向けて私たちができることは、世の中の正義ではなく神の義にしたがって、分かち合っていく姿勢ではないでしょうか。貧困に思いをいたし、その解消に向けて自分ができることを、祈りの中で探して参りましょう。