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アレクシオ・ウッサン神父
遠藤周作の「ルーアンの丘」にも登場するウッサン神父。この本の中には、遠藤周作がフランスに留学する際のウッサン神父の多大な貢献が、面白おかしく記されている。
ウッサン神父は1909年に、純粋なフランス語の発音で知られるアンジェ市に生まれた。彼は自分の父がカトリック学校にその生涯を捧げた事に誇りを持っていた。そして、父の跡を慕い、アンジェ教区の司祭として当地のカトリック高等学校で教授と校長を務めた。
多忙にもかかわらず、彼はイエズス会を模範として創立された教区司祭の会である「聖心司祭会」に入会したが、心はすでにイエズス会師であり、できるだけ早くイエズス会に入る事を望んでいた。非キリスト教国への宣教活動をイエズス会の主な任務と考えていた彼は、外国宣教ことにアジア地方への宣教を望んでいた。最初中国に赴任の予定だったが、外国人宣教師の国外追放の政策が勃興していたため、急遽日本への宣教が実現したのだった。彼は1946年にイエズス会修練院に入る許可を得、1948年に来日し田浦で誓願をたてた。
来日してからのウッサン神父は、東京練馬区の大神学校で副校長を務め、関町教会も手伝っていた。またフランス語やグレゴリオ聖歌を多くの人、特に神学生や様々な修道会で指導していた。当時ウッサン神父の録音によるフランス語発音のレコードが、コロンビアレコード会社から2枚出され、NHKラジオでは神父の響きのよいテノールでグレゴリオ聖歌が放送された事もある。
当時の彼の寝室には、むき出しの床の片隅にマットレス、その上に1枚の毛布と枕が置かれているだけで、教区司祭の守護の聖人聖ヴィアンネの小さな像が棚の上に載っているだけの質素なものだった。これについて彼は「私たち司祭でもうっかりしていると、この日本のあまりにも物質的な状態に流されてしまいます。ですからこんな生活も私たちには必要なんですよ。でもその苦しさを顔に出してはならないのですよね。」と語っている。
1958年からは広島の翠町教会に赴任、東京とのギャップを感じながらも、着任後直ちに壮年会、婦人会など各会の再発足を呼びかけ、翌年には日曜学校を開設し、勉学の指導も行ない、教会内の活動を活発化していった。
翠町教会のある婦人が何かの役に立てばとレース編みを教会に持って行くと、「この手は神さまが、あなたにだけ作ってくださった尊い手です。この手を神様のため、人のために役立つ様に使ってください。決して傲慢に使ってはいけませんよ。」と優しくなでた。
また友人に裏切られ落ち込んでいる信徒には「あなたの事はすべて神さまがご存知です。むしろあなたの真心を裏切った相手のほうこそ可愛そうな方です。さあその方のために一緒にお祈りしましょう。」と、共に赦しの祈りを唱えたりして、信徒と共に歩んだ。
「より大いなる神の栄光のために」ウッサン神父は、イエズス会の創立者、聖イグナチオのこの精神を自分の心とし、いつも現状よりよい奉仕は何かを探し実行していた。彼の論理では将来の司祭たちを言葉で教える事に満足せず、行為が重要であると考えていた。彼はそのような宣教師の一人になる事、そしてそれ以上に、彼らのうちでもっとも貧しい者の一人になることを欲した。
彼のとっての問題は、洗練された日本語でも、精緻な神学でもなく、キリストへの奉仕における絶え間ない烈しい熱情だった。「捧げよ!捧げよ!」これが彼の霊的生活のライトモチーフだった。
1963年7月、アレクシオ・ウッサン神父は2度の脳溢血の発作の後天に召された。享年54歳。
(特集-司祭 10 2010/6/18)