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ブラジル日系移民の使徒 中村長八神父
2008年にブラジル日系移民百年祭が行われ、日本人司祭中村長八神父の業績が改めて注目を浴びている。
1865年6月に九州五島列島で生まれた中村神父は、15歳で家族を失うという悲劇を味わいながらも、神学校に入学し司祭となった。叙階してすぐに鹿児島県奄美大島の教会で26年間司牧に従事している。
その間の1908年頃からブラジルへの日本移民の流れが始まっていたが、日本人移民への宣教活動は大変困難だった。ブラジルの司教たちはこの状況を解決する手段として、日本語を話せる司祭を東京、長崎の大司教に要請した。
この話は中村神父のもとにも伝えられたが、その慎ましさと多分高齢であることから、彼はすぐには名乗らなかった。しかし誰も志願していない事を知り、長崎大司教宛の手紙をしたためた。「もう年老いておりますし、さほどお役に立つとは思いませんが、もし私でよければブラジルに参りましょう。」
この時彼は58歳だった。
1922年ブラジルに到着してからの6年間、彼は唯一の日本人宣教師であり、その活動はブラジル全土に及んだ。この時期に彼は日本の友人に次のような手紙を書いている。
「ある場所から他の場所へと精力的に動き回り、休みなく働いています。・・・今のところ、ミナスジェライ、サンパウロ、パラナの各州を回り、秘跡を授け、説教を行っています。これらの場所には年に2回巡回しています。現在ブラジルには4万人の日本人がおり、そのうちカトリックは170家族、信者数は約800人です。400回の聖体拝領を行い、50人が洗礼を受けました。非洗礼者に対する講話は88回、それぞれ2時間ずつです。今日まで6回落馬しました。列車の脱線は1回経験しました。革命も1度おこりました。・・・神様に感謝しています。ブラジルのためにお祈りください」
中村神父は、ポルトガル語がよく話せなかったので、司教たちとはラテン語で話していたようである。その広範囲で多忙な活動に対して「あなたはいつ休むのですか?」と問われた彼は「パライソで(天国で)」と答えたという。
1940年に入ってから、彼は長年にわたる間断のない旅行に終わりを告げて病床につき、3月14日75歳で帰天した。
中村神父はブラジルに赴く際、奄美大島から持ってきた2本の槙苗を生家に植えて渡航した。そのうちの1本は現在も残っている。中村神父の甥は次のように語っている。「往古の時代、槙は棺材に使用されたと聞いておりますが、中村神父様は棺材を手植えされて渡伯されたのではと想像しております。」
17年の間、広大なブラジルの地を、貧しい身なりで雨の日も風の日も徒歩や馬で訪れる中村神父の献身的な姿は、人々の目に尊く映ったに違いない。
現在、バチカンにおいて、中村長八神父の列福調査が進められている。
(特集-司祭 4 2010/5/7)