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マキシミリアノ・マリア・コルベ神父
コルベ神父と言えば、アウシュビッツ強制収容所で、脱走者の見せしめとして餓死刑になるはずだった人の身代わりとなり殉教した司祭としてよく知られている。
彼(本名ライムンド・コルベ)は1894年にポーランで生まれた。コンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会し、仲間とともに汚れなき聖母の心で武器を持たず愛を持って戦う「汚れなき聖母の騎士会」(信心会)を設立し、24歳で司祭に叙階された。 1930年にゼノ修道士らと来日すると、長崎でも日本語版の「聖母の騎士」誌を出版したり、「無原罪の聖母の園」(コンベンツァルの聖母の騎士修道院)の設立をするなど、日本の教会のために尽力した。
コルベ神父は聖母マリアに対しての特別な崇敬と愛情を持っており、少年時代には既に「白いバラと赤いバラを聖母に捧げる」と誓っていた。コルベ神父はアジアでの布教が重要だと考え1930年に来日し、長崎に降り立ったが、最初に向かったのは大浦天主堂だった。そして、彼を出迎えたのが純白のマリア像だった。
知らない国で言葉も全くわからない状況の中ですぐに執筆に執りかかり、活字拾いに何時間も費やした。一日にわずか二行半しか植字の進まぬ日もあったが、長崎上陸の一ヶ月後には出版することができた。貧しく厳しい生活、病気、教会からの無理解など、コルベ神父には内外からの苦難がたくさんあったが、聖母に総てを捧げれば、聖母からの助けや慰めも多々あった。コルベ神父はこれらの慰めを「聖母がくださったキャラメル」と言った。
ある時、砂糖を買うお金さえなく困っていたところ翌日にはある老人からの寄付があり、それがちょうど砂糖が買える金額だった。コルベ神父は「このお金はマリア様が下さったものです。マリア様が買うのをお望みです」と言って、ゼノ修道士に砂糖を買いに行かせたという話がある。「聖母マリアが助けて下さった」と単純な信仰をもってコルベ神父は感謝した。
1931年といえば満州事変が勃発し、コルベ神父は将来を予見するかのように書いている。「世の中に何かが起ころうとしている。しかし、聖母に捧げられた我らに、何事が起ころうとも、命以上のものを奪い取ることはできないだろう。たとえそのようになっても、我々にとってはすばらしいことだ。そのときこそ我らは精いっぱい、この両方の手で全世界を汚れなき聖母へと導くことができるからです。」
1982年にコルベ神父の列聖を記念して、ゆかりの地長崎県本河内に「コルベ記念館」が建てられている。記念館中央にはコルベ神父の部屋、その他「聖母の騎士」発行の際使用した機械やコルベ神父の遺品などが展示されている。
白いバラは司祭、赤いバラは殉教者、その両方の召命をコルベ神父は少年の時の約束通りに生きた司祭であった。
「けがれなき聖母を愛しなさい。聖母を愛する人は、真の幸福を発見します。」(コルベ神父の言葉)
(特集-司祭 8 2010/6/4)