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6. ヨーロッパへの最初の日本使節

 ヴァリニャーノが日本の宣教のためにローマとのつながりを重要視していたことは、彼のいろいろな手紙で明らかになる。そのつながりを強める方法の一つとして日本人のグループをローマに派遣することは、彼の考えから言えば当然な帰結であったと言える。キリシタン達が不安を感じたことも無理はないが、その結果を見れば日本の宣教全体に良い影響を与えたと評価できる。
 中浦ジュリアン、原マルチン、伊藤マンショ、千々石ミゲルは当時の日本教会代表として、派遣されてから3年以上をかけてローマで教皇グレゴリウス十三世に荘厳に迎えられた。パストール師の『教皇史』によれば、その歓迎はまったく破格のものであった。
 日本のキリシタン大名達(大友宗麟義鎭、大村純忠、有馬晴信)が送った手紙は礼儀にかなったものであった。使節が日本に帰った後の反応を見れば、ローマとの関係を身近に感じさせ、いろいろな問題を宣教師だけの手紙ではなく直接に書くことも増えた。使節帰国後の反応を表す文書として、1590年9月22日付のキリシタン代表として大村喜前、有馬晴信が教皇シクスト五世に送った二通と、1590年10月14日付のエーヴォラの大司教に千々石ミゲルが送った一通が参考になる。三人とも日本での迫害に対するヴァリニャーノの方針とそれに対しての賛成、迫害が鎮まる期待、キリスト教の発展の期待とその難しさなどを正直に述べている。つまり、日本教会のメンバーの(少なくとも何人か)に全教会に属する意識が芽生え、またローマからそのように認められていることが確認されたと言えよう。

(特集-ヴァリニャーノ 6 2006/11/3)

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