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7. 日本人の改宗にあたって

 1583年に編集された『スマリオ』は、その当時までの方針を実行に移したものを一つの基本法として考え、日本での宣教方法に一貫性を与えたものであるが、そこで洗礼の準備についてこう述べられている。
 「改宗の際に人々に対して行なわれる方法は、教理を充分よく説明することである。これはそのことごとくが七つの問答に述べられており、日本人の諸宗派の誤謬や虚偽、ならびに人間の霊魂に賞罰を与える唯一の神の存在を示し、救世主キリストの御誕生および聖なる信仰に関するその他の重要なことを説明する。これによりキリスト教徒になることを決心した者は、直ちに日本語で、使徒信経、主祷文、および天使祝詞、十戒その他の祈祷を書く。日本人は一般に皆、手芸を好むので、彼らはこの書いたものを熱心に装飾する。」
 また、典礼に関しては以下のような指示がある。
1.主に典礼に関して、できるだけ同じやり方が保たれるようにする。
2.洗礼を受ける人が要理を知っていることを確認する。
3.洗礼を受ける人の地位に合わせて司祭の服を変えてもよい。
 (日本人にとってこれは重要であったことが、あるエピソードの記録によって伝えられている。そこでは、司祭服が違っていたという理由で、再洗礼を頼んだキリシタンがいたと言われる。)
4.断食の義務を課さない。同じように大きな祝日以外、典礼に参加する義務を課さない。
5.迷信的なものが入らない限り、キリシタンたちに日本的な祝いに参加することを禁じてはならない。

 16世紀の宣教では、救いの道は一つであり、他の宗教は誤りに基づくものとして排斥する考えが強かった。その考えによればキリスト者になった人々が前の宗教的生活、習慣、建物などに対する破壊を当然としたのも不思議ではない。例えば1563年に大村純忠が中心となって仏教的なものを破壊したことにより、いろいろな災いを招いたという事実がある。この点について、ヴァリニャーノはこう述べている。
「新しく改宗が始まる地方で成熟した、また慎重な姿勢が必要である。たとえその地方の権力者とその家臣の多くがキリシタンになったとしても、寺や神社を壊すとか彼らの御像を公然と燃やすとかいう侮辱を起こしてはならない。彼らがそれを望んでも妨げるべきである。このような行為で異邦人はつまずいて『キリシタンが入るところに全てを壊し、また破壊する』と言わないように、御像を少しずつ密かに燃やし、お寺や神社を教会に変更していくべきである

(特集-ヴァリニャーノ 7 2006/11/10)

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