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2. 一枚の刺子の布巾に祈りを込めて
「自分の家で窓を開けて外に洗濯物を干せる普通の生活に戻してほしい」と語っているのは計画的避難要請を受けて、福島市に避難せざるを得なくなった飯舘村のKさん。Kさんは一歳、四歳、七歳の子どもたちの母親である。その新聞記事を読んで、わたしはKさんが飯舘の自宅に戻れる日が来るまで刺子の布巾を縫い続けようと思った。そうすることでKさんたちの、想像を絶する戸惑い、苦しみ、痛みにほんのわずかでも近づくことができたらいい。
わたしが刺子の布巾を縫い始めたのは東日本大震災が起きてからまもなくのことだった。大震災と福島第一原発事故のニュースは夫の両親が生前、暮らした家がいわき市にあり、現在は二か月に一度くらい訪れている、わたしども夫婦をも直撃した。震災の起きる、つい四、五日前も母の命日の墓参にいわきに行ってきたばかりだった。
この何年か、わたしたちはいわきの家を拠点に、どれだけ福島を歩き回ったことだろう。南相馬、双葉、大熊、浪江、請戸、川内、川俣、久ノ浜など、ラジオから流れる地名に、その地で出会った人や海と山の豊かな自然を思い出して、胸がしめつけられる思いだった。とめどなく涙がこみあげてきて、しばらくはなにも手がつかなかった。
やがてわたしは縫い針を手にし、晒し木綿の布巾を縫い始めた。いわきの家はどうなったのだろう? 四倉の海辺の干物屋のご夫婦は無事かしら? そんなわたしの不安をひと針、ひと針が掬いとってくれるような気がした。何枚かたまったら被災地へ送ろうと決めると、針を持つ手に弾みがついた。
あれから二か月がたつ。夫の両親はじめ家族の歴史と思い出を残す、いわきの家は地震による被害が大きく、結局のところ、解体せざるを得なかった。近くのクヌギ林にウレチイチャンとわたしが名づけた鳥がやってくる、いわきの家への未練や執着はなかなか捨てられなかった。気分が落ち込んで仕方がなかった。しかし、震災後、家の片づけにいわきへ通うこと四回目、さら地になった家の跡地に立ったわたしはルルドの聖水をそそぎ、これまでこの地でいただいた恵みに感謝し、将来、ここに暮らす人の幸せを祈ることができた。「ホカロン持ってくのよ」「みんなでお祈りしてるわよ」「もう若くはないんだから無理しちゃだめよ」と言って送り出してくれた友人たちのおかげである。
最近、タイからうれしい知らせが届いた。六月はじめ来日するタイの知り合いの青年がいわきでマッサージのボランティアをしてくれるという。それを聞いてわたしも負けてはいられなくなった。お年寄りのための童謡の会を続けてきた経験を生かすことを目下、考えている。短大講師の若い友人は夏休みにいわきへボランティアに来てくれるという。なんだかわたしはボランティアの手配師になったような気分である。
「強く、また雄々しくあれ、あなたがどこへ行くにもあなたの神、主がおられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」(ヨシュア記1:9)
震災後まもなく送られてきた、あるニュースレターの中のみ言葉を、この二か月間、わたしは神さまがわたしに直接おっしゃってくださった言葉として受け止め、勇気を奮いたたせてきた。そして今、わたしはやっぱり神さまがついていてくださったのだという安堵感にひたっている。
(Y.O 女性)
(特集-だれかのためにできること2 2011/7/12)