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1. 人間として生まれたパウロ

 パウロは、ローマ帝国の属州、キリキアのタルソ(現在のトルコとシリアの中間)で生まれました。生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人と自ら称しています(フィリピ3・5)。彼は当時の人々にとって最高の名誉であり、種々の特権を受けることができるローマの市民権を持って生まれました。
 また、どのユダヤの名家もそうですが、パウロの家もファリサイ派に属し、中でもパウロは特に厳しい躾を受けて育ちました。父親は彼を、早くから将来ラビ(律法の教師)にすると決めていましたが、慣習に従って手に職を持たせました。それがテント工で、当時キリキウムと呼ばれたキリキア産の厚い布地でテントを作る職人でした。

 パウロは若くしてエルサレムへ行き、ガマリエルの門下に入ったといわれています。ガマリエルは、当時のエルサレムの中でも高い見識を備えた人で、穏和で善良、誰をも軽蔑せず、異邦人と挨拶を交わすこともありました。これは最大の寛容さのしるしとされています。その彼の思想には、非の打ち所が無い完璧なものがあり、パウロにも大きな影響を与えたといわれています。
 ファリサイ派の考え方は、律法に忠実に生きることが、救いを得るためには必要だ、というものでした。
 旧約時代に、神はイスラエルの民に一方的な救いの約束を与えました。彼らは選ばれたものとして、相応しい生き方に招かれていましたが、その生き方がどのようなものなのか理解できません。それで、モーセを通して神の側から与えられた掟を基に、律法ができました。ですから、神の前に相応しいものとされるための基準が律法だったわけです。そのような中で育ったパウロにとって、律法は絶対でした。

 しかし、ナザレのガリラヤ人、イエスが現れ、新しい言葉を伝えていました。イエスの目には、形式的な掟よりも、愛に基づく意向の正しさとか、心の清さの方が大事でした。これはファリサイ派の在り方とは全く正反対の考えです。パウロはイエスに会った事はありませんが、激しい性格の彼がイエスの言うことを聞いたなら、憎悪と怒りを感じたことでしょう。

 彼はとても熱心でした。自分の信じたこと、確信したことについて、それを貫き通そうとする強い意志がありました。しかし、彼が身につけていたのは、律法の精神ではなく律法の形式的な守り方でした。キリストの弟子達がその師から受け継いだ、内に秘めた愛に燃えて宣教をしていたのとは反対に、パウロは律法という、外面的な型にはまったやり方でしか人々を動かすことができませんでした。形式を重んじるばかりに、自分と同じように考え、行動しない人たち、特にキリスト者に対して、迫害という形で裁きを下そうとします。そしてそれは、ファリサイ派の律法を重んじる当時のパウロにとって、人々に救いを得させるための、「神の前に正しい行い」だったのです。

参考資料
『聖パウロの世界を行く』 曽野綾子編著 講談社
『イエスキリストの使徒聖パウロ』 永井明著 グロリア文庫
『パウロ 伝動のオディッセー』 E.ルナン著 人文書院
『愛と栄光 使徒パウロの生涯』 ダニエル・ロップス著 女子パウロ会

(特集-聖パウロ 1 2009/5/29)

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