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11. 信仰の座標 父親の模範 Ⅳ

ミカエル三石彦右衛門(ひこえもん)50歳と息子トマス13歳
ヨハネ服部甚五郎39歳と息子ペトロ5歳

 熊本の大名加藤清正の迫害で多くの殉教者が出ましたが、八代の殉教は、地方における殉教の開始であり、また26聖人の殉教以後最大のものです。宣教者追放の後、信者の世話、病人や貧しい人の訪問、信仰を捨てる仲間を励まし、殉教した人を引き取って葬るなどをする慈悲役として、ヨアキム渡辺次郎左衛門、ミカエル三石彦左衛門、ヨハネ服部甚五郎の3人が選ばれました。1604年、この3人は捕らえられ投獄されます。苦しい牢獄生活の中でも祈りと宣教に長い歳月を捧げて務めを果たしました。渡辺は1606年に獄中で労苦のために帰天します。まさに殉教です。三石と服部は、4年後、処刑されるために牢獄から引き出されます。
 役人たちは、トマス三石13歳、ペトロ服部5歳を連れに行きました。トマスは母親から殉教の覚悟を教えられており、晴れ着を着て喜び勇んで家を出ました。父親が一撃のもとに首を落とされるとその遺体から離れようとはせず、障害のあるなえた左手を右の手で胸に寄せると黙って天を見つめて首を差し出しました。その後、生きていたときと同じように、支えあうようにして父親の傍に横たわりました。
 ペトロが生まれた時、父親はすでに牢獄にいました。父親のことを不思議に思ったペトロは、ある日こっそり牢獄の父親を訪ねて話し合います。その時の「神様との約束を果たす」と父親の言葉が心に深く刻まれ、「お父さんのように」生きたいと思うようになりました。刑場でペトロが父親に出会うのは牢獄以来のことです。しかしペトロが到着した時には、父親はすでに処刑されていました。ペトロは遺体の傍に走りより、ひざまずいて「お父さん、神様との約束を果たしたね」と話かけて、動かずにじっと留まっていましたが、やがて着物の襟を開き、両手を天にあげて首を差し出しました。処刑人は、この光景に絶えられず、刀を振り上げることができません。そこで絶えかねた群集の一人が走り出て刀をとりペトロの首をはねました。 1609年2月4日、麦島での殉教でした。

参考資料
・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社)
・愛の証(殉教者列福調査委員会)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)
・恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社)

(特集-日本の殉教者 11 2008/5/23)

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