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4. 償いを生きる
私は、人間の存在そのものを抹殺する死刑という刑罰の不条理さを強く意識し、1992年に死刑廃止フォーラムinなごやの活動に参加するようになりましたが、死刑が直接問題となる事件を担当するのはこれが初めてでした。
長谷川さんに会ってみての印象は、笑みを絶やさない明るさと率直さで、私には意外なことでした。死刑を現実的なものと考えていないということではなく、それはまず回避できないことを認めたうえで、自己をゆだねることのできる信仰に支えられてのことであるとすぐに理解できました。
長谷川さんの弁護を担当するようになって、長谷川さんと交流する多くの人たちと私の交流が始まりました。こうして私も「長谷川ネットワーク」に組み込まれたことになりますが、このような人間的な交流が長谷川さんを包み込み、その償いの気持を深化させ、支えていたのです。
長谷川さんの償いの気持は一つの「奇跡」をもたらしました。被害者遺族である原田正治さんとの交流です。原田さんは長谷川さんの希望を受け入れ、犠牲者である弟さんのお墓への墓参を私たち「長谷川さんの代理人」に許されました。さらに原田さんは長谷川さんと拘置所で面会されるようになりました。
原田さんは一審当時、弟を殺害した長谷川さんが死刑になるのは当然であると確信し、裁判所でもそれを求める証言をしました。しかし、原田さんは長谷川さんからの手紙を読み、「聞きたいこと、確かめたいこともある」「一度会ってみよう」という気持になったのだそうです。原田さんは実際に長谷川さんに会ってみて、裁判所で見ていた長谷川さんとは別の長谷川さんを発見し驚いたと言われます。長谷川さんの償いの気持が原田さんに通じ、原田さんの心境をも大きく変えさせたのでした。原田さんは、長谷川さんの罪を許すことはできないけれど、償いの気持は受けとめ続けていきたい、死刑は加害者の償いの機会を奪い、被害者遺族の償いを受ける機会を奪うものだと考えるようになりました。
原田さんとの交流より少し時期が遅れますが、私は被害者Eさんのご遺族との交流の場にも立ち会うことができました。原田さんとの交流でも、Eさんのご遺族との交流でも、肉親を殺害された被害者遺族の怒りと悲しみの深さを私自身に刻み込みながら、死刑が被害者遺族の報復感情を幾分満たすことがありうるとしても、本質的な意味で「救済」とはなりえないのでないかと考えたのでした。
私にとって長谷川さんはどのような存在であったか。
生きること、生きていることの意味を私に常に問いかけ、それを意識させる存在、それが私にとっての長谷川さんでした。生きること、生きていることに勇気づけられていたのは、私であったということになります。
稲垣 清(弁護士) コスモス通信 第50号「長谷川敏彦さんのこと」より
1993年 9月21日 最高裁死刑判決
2001年12月27日 死刑執行
(特集-和解 4 2003/3/21)