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1. 和解―慈しみのまなざし

 和解といえば、対立する双方の気持ちが和らぎ、仲直りすること、また争っている当事者が互いに譲歩をして争いをやめるということです。
 身近なところでも、夫婦間、家庭内、親子関係、たくさんのトラブルが起こります。地域社会や知人、友人たちの間にも争いが起こります。また自分で自分自身を受け入れられない恐ろしい葛藤もあります。
 世界の様々な地域で民族間の深刻な紛争が起こりました。グァテマラ、カンボジア、ルワンダ、ボスニア、アフガン等々の紛争の写真が、今でもたくさんの人の記憶に残っているでしょう。被害者になるのはいつも一般市民です。特に子供たちの状況は悲惨です。
 地雷で手足ばかりか命をも失った人々、また兵士として最前線に送り込まれ、逃亡すれば処刑される恐れをいつも抱いている若者たち。兵士たちから性的虐待を受け、体も心もぼろぼろにされた女性たち。
 このような状況から、和解することがどれほど難しいか、そして同時に和解する心がどれほど必要なのかが分かります。
 和解の意味を理解するには自分自身から始めた方がいいのかもしれません。
 現代は、自分に満足せず、自分を責めて、自分のことが嫌になる人が多いようです。しかし、神さまは、このままの私を「それでいいのですよ」とおっしゃっています。それなのに、人と比較して自分の悪いところや足りない点に不満をもち、自分自身が嫌いになってしまうのです。いろいろ欠点があり、足りない面があっても神さまは私をよしとされているので、自分自身をそのまま受け入れればよいのです。これは自分自身との和解と言えるでしょう。
 神さまが私に注いでくださっている眼差しで自分を眺めることができれば、私は他の人の欠点や過ちも赦せるようになるでしょう。
 そうすると、家族や友人、職場の人々とも、対立ではなく、協力できるようになります。これも人との和解と言えるでしょう。
 戦争や内戦の時、目の前で、父親や母親、兄弟姉妹が殺されて、その苦しみ、悲しみ、痛みを表わすことができず、ずっとその気持ちを抑えていなければならなかった人々もあります。
 それは心の中に固い石となり、神さまを見い出す妨げとなります。どんな人も、程度の差はあるにせよ、自分の中に固い石を抱えています。その石を取り除くことが大切です。しかし自分の中にそのような石が見えてきたら、それだけでありがたいことです。
 それからの和解は神さまの働きによるものなのです。

(特集-和解 1 2003/2/28)

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