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17. 多くの人の心に光を与えた全盲の使徒ダミアン

 ダミアンは、堺で生まれ、路上で琵琶を弾きながら旅する全盲の琵琶法師でした。 山口で住み着くようになり、そこでキリストと出合って25歳の時に洗礼を受けました。それ以来ダミアンという新しい名で呼ばれるようになりましたが、日本名も家族など多くのことは知られていません。ダミアンは、持ち前の記憶力と理解力を生かし、信仰の光に照らされた雄弁な説教師として人々に教えを説き多くの人の心に光を与えました。キリシタンを訪問しては励まし、迫害を恐れて信仰を捨てる仲間たちを勇気づけ、子どもたちに洗礼を授け、葬儀を行い、貧しいながら次第に牧者のいない教会で伝道士となって司祭のいない山口教会の中心となりました。

 教会の中心となって働いたもう一人に、備前高松の城主であり、毛利輝元の最有力家臣の一人に名高いメルキオール熊谷豊前守元直(くまがいぶぜんのかみもとなお)がいます。元直を深く信頼していた輝元も、信仰を宣言してはばからず、命令に従わない元直を見逃すことはできなくなりました。山口教会に元直とダミアンがいる限り自らの目的を果たすことができないと知り、この二人の処刑を決断します。

 元直が斬首されたのは、1605年8月16日の夜明け頃でした。50歳でした。

 その三日後、19日の夜、仲間の信者たちに知られないように処刑するため、毛利の役人は、用事があるからと伝道師ダミアンを湯田まで同行するようにと呼び出します。ダミアンは死が近いと察し、体を洗い宴会に出かけるかのように立派な服を着て応じました。その途中、街道をそれてわき道に入り、一本松というところにいくと、ダミアンは「これは湯田への道ではない。私を騙すつもりなのか。私にとって道は夜でも明るい。処場への道が鮮に見える」と言って役人たちを驚かせました。役人たちから処刑の理由を聞くとダミアンは、「私には用意ができている。信仰のために死ぬことは大きな喜びである」と馬から飛び降りて跪き、静かに祈り首をさしだして太刀を受けました。45歳でした。

 遺体は、隠すために細かく切断され、川に流されましたが、信者たちは必死にダミアンの遺体を探し、首と左腕を茂みの中に見つけました。そして貴重な宝として長崎のセルケイラ司教のもとに届けました。

 全盲のダミアンは、神から光をもたらす使徒としpて選ばれ、殉教をもってその使命を全うしました。

参考資料:
・八八まるちれすの地を訪ねて カトリック生活Vol.16 盲目のダミアン(ドン・ボスコ社)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)
・愛のあかし(列聖列福特別委員会 編)
・恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社)

(特集-日本の殉教者 17 2008/8/15)

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