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5. 家族―母親と子ども Ⅱ

 加賀山隼人は1619年10月14日に殉教しました。17年後長女みやは、夫小笠原玄也と9人の子ども、召し使い4人と共に1636年1月30日に熊本禅定院で処刑されました。
 武士であった玄也は、キリシタンであるが故に細川忠興から追放され、一家15人は小倉郊外の百姓家に住み、畑を耕して細々と生活していました。中浦ジュリアン神父は、小笠原一家が小倉の郊外で百姓をしながら生きのびているのに出会ったと報告しています。13年間の極貧監禁生活の末、1635年12月11日に捕らえられ、50日間屋敷牢に閉じ込められた際、一家は屋敷牢から親戚および友人に16通の遺書を送っています。
 その遺書は現在も残っており、すばらしい信仰を証しています。
 遺書に玄也は、数々の憐れみをかけて下さった方々に切々と感謝を伝えており、みやは、「女性でありながら、このような殉教の誉れを受けることができるのは、何とありがたいことでしょう。言葉に表して言うことはなかなかできません。どうしても棄てることができない宗教ですので、このようなことになりました。」と感謝にあふれています。また次女くりは、叔父たちに宛てて「おじさまたち、お母さまをお叱りになっていますが、お母さま一人がそうさせたのではありません。」と母親のみを責めることのないようにと懇願しています。この事は、周囲が一家全員処刑されるまでに至ったのは、みやが皆を引きずり込んだと考えていたことを表しています。くりは、母親が強制したのではなく、自分たちが自ら望んで生命を棄てる覚悟であると母親を弁明しています。そして子供たちの遺書は、この世に残る人々への深い愛情、そして自ら死を選び取るその想いが綴られています。
 みやは妻、そして母親としての生き方を通して、家族の中心、絆、模範として信仰をしっかりと守り子どもたちを育てました。特に1 3年間の厳しい監禁生活の試練、屋敷牢での殉教を前にした50日間は、特別な恵みの中で、家族の信仰を深め確固としたものにしたに違いありません。 

 私は生活の中で、どんな時にどんなことに感謝しているでしょうか。
 私が大切にしているもの、何ものにも変え難いほどに固執しているものは何でしょうか。何故でしょうか。

参考資料
・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社)
・バルタザル加賀山半左衛門と息子ディエゴの殉教(大分教区殉教の証特別委員会)
・殉教者を想い、ともに祈る週間
・愛の証(殉教者列福調査特別委員会 編)

(特集-日本の殉教者 5 2008/2/29)

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