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9. 日本における神の導き方
ヴァリニャーノは2度目の来日に当たり、日本における神の導き方、摂理の独自性について、1583年に書いた『日本諸事要録』で、次のように述べている。
「今まで、我らの主なる神の御摂理が、日本の改宗やキリスト教化に際してとり給うた方法、また今、とり給う方法を考察する時、吾人は感嘆し、驚愕し、その御業に於ける主の御裁断が如何に偉大で、我々人間が辿る道とは如何に反対であるかを述べざるを得ない。なぜならば、人間的に言えば、これほど遠く離れた未知の国、我らヨーロッパ人とは全く連絡のない国、我らとは法律、習慣、性格が全く反対である日本人の国では、主なる神は初代教会に対してと同じように御心を注ぎ給い、聖なる信仰を受け入れるように日本人の心を動かすためには、奇跡を現し給うたり言葉の障害を除去し給うような方法で司祭やかくも新しい信徒を援助し給うに違いないと思われる。しかるに主なる神の御智恵は、今までのところ、別の方法を以て彼らを導き給うたように思われる。すなわち、神は何故これに就いて御心を示し給わず、ある意味では、司祭達が作ってきたものを破壊しようとすら御望みであるかのように、そして聖なる信仰が広まっていくあらゆる地方で、その布教が最も成功した時に何等かの大いなる不幸が生じることを嘉し給い、司祭達が表面的に現れたことによって異教徒達は聖なる信仰を憎悪し、神仏の力を讃える機会とし、それが為に大いなる迫害が生じ、その迫害その他の大きな不利益が原因となって、新しいキリスト教徒はその信仰を冷却し、我等のことに疑念を抱く機会とするように計らい給うた。しかし我らの主なる神が、全てこのように計らい給うたのは、救済手段を何も与えず、奇跡その他超自然的な御業もなく、ただ衰退と迫害という方法だけでも信仰を広め、これを説く人々を激励し、信仰を受け入れるように人々の心を動かし、この信仰以外に救済の方法がないことを人々に理解させ得ることを示し給うためであったと思われる。」
(特集-ヴァリニャーノ 9 2006/11/24)