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満たされる

次のたとえ話には、今日で言えば、家やお金に恵まれて何不自由なく豊かに生活している人の姿が描かれています。 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」(ルカ12・16-20) 日本では満たされた状態で生活している人がたくさんいるように見えます。満たされた生活と言っても、本当に心を満たしてくれるものなのか、それとも薄っぺらな物によって一時的に満たされるだけなのかが問題です。イエスは「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。」(ルカ6・21)と言います。多くの日本人は今本物に対して飢えていると言われています。それは必ずしも楽な生活と直結する満足感ではないようです。 「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(ヨハネ15・11) 四旬節は、この喜びと充実感を控えています。そしてそれは復活への準備に過ぎません。主よ、復活の時に、将来のその完全な喜びに永遠に満たされるよう導いて下さい。

(特集-渇き 6 2002/3/15)

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