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16. 社会に浸透する共同体の力
ルイス甘糟右衛門(あまかすうえもん)と米沢の殉教者たち
米沢教会は司祭が年に数回訪れるだけの巡回教会「信徒の教会」でした。教会は、信徒の組の組織「聖母の組」「ご聖体の組」によって支えられており、上杉藩の武士ルイス甘糟右衛門は、その中心人物で二つの組を総括する惣親でした。信徒たちは定期的に集まり、霊的読書と祈り、分かち合い、孤児の世話、病人、貧困者の支援を行い、組み親は求道者を教え、葬儀や結婚式の司式もしていました。教理を教え、祈りの集会で指導する使徒職の指導者に、甘糟を中心とする、パウロ西堀、ジョアン板斎主計、ジョン有家、アントニオ穴沢等がいました。なかでも惣親、右衛門の説教「殿談義」は高く評価され、多くの民衆の心に届きました。悲しむ人、苦しむ人と共に生きる信徒の姿に、身分の上下を越え、家族から使用人、友人、そして多くの人たちが信頼を寄せるようになり、迫害の起こる1628年当時3000人以上の信者がいたと上杉藩の文書に残されています。
上杉景勝は、「米沢には一人のキリシタンもいない」と終始苦難を共にしてきた家臣をかばいましたが、景勝が逝き、家督を継いだ定勝は、幕府の圧力を避けることができず、遂に1628年、キリシタンの弾圧に踏み切ります。再三棄教を迫られた右衛門とその仲間たちは、「信仰は曲げられませぬ」と終始一貫して堅固な信仰を貫きました。1629年1月11日に主だったキリシタンに処刑の命令が下されます。翌12日、刑場に着くと「ここで死ぬ者たちは、信仰のためにいのちを捨てる、いさぎよい人たちである。皆のもの土下座するようお願い申す。」と奉行の声が響きました。北山原、糠山、新藤ヶ台の三箇所で、男性30人、女性23人、うち5歳以下の幼児9人が処刑されました。殉教の記録をまとめたイエズス会士ポッロ師は、彼らの亡骸は、「信者でない人々によって丁寧に取り扱われた」「この地には、一人の悪人もいなかった」と伝えています。
米沢信徒共同体の殉教者たちは、今日の社会に生きる私たちに何を呼びかけ、どんな希望を与えてくれているでしょうか。
参考資料:
・米沢の殉教者 結城了悟(日本26聖人記念館)
・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)
・恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社)
(特集-日本の殉教者 16 2008/8/1)