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4. 誰かのためにできること~わたしの東日本大震災

  最近、わたしは日本財団から支援を受け、ボランティアとして被災地区と関わりを持つようになりました。わたしの仕事は、避難所で生活する方々に足湯をし、話を聞くというストレスケアを目的としています。この働きでは、被災者の話に耳を傾けるということが非常に大切です。お湯に足を浸し、手や腕を揉みほぐしながら、10分から15分の時を被災者と共に過ごします。 この働きをニュースで知ったとき、疲れた人々に足湯をしお話を聞いている姿は、イエスさまが弟子たちの足を洗っている姿のようにみえ、ちょうど四旬節中のことでしたので、洗足を実践してみることは、わたしにとって、これ以上ないよい働きのように思われました。
 わたしが訪問した被災地は2カ所で、津波の被害の大きかった宮城県七が浜町では、何もかも失ってしまった絶望と恐怖の体験が足湯をする中でたくさん聞かれました。津波の恐怖を体験した人々に共通して聞かれる言葉があります。それは「なぜ、私が生き残ったの。」というものです。この問いは、圧倒的な死の恐怖の前に、自分の「生」を肯定できない思いを孕み、それは聞く私にとっても、一番きつく辛かった問いです。なぜなら、このような「痛み」の回復は、長い時間がかかるのはもちろんのこと、一生の傷として、その方の中に残り続けるのではないかと思うからです。そして、そのような深い痛みの前に、ただおろおろと佇む私がいるのです。
 あるいは、福島県郡山市内の大型避難所でのことです。ここは原発の放射能漏れ事故によって20キロ圏内にあたる富岡町、川内村の人々が、町ごと退避し生活している特殊避難所です。食事配布の長い行列の中に、顔見知りのおじさんを見つけたわたしは「今から帰るね。元気でね。」と伝えました。出発間際のことだったのです。おじさんは、淋しそうな顔をした後、にかっと笑って、まわりの人が振り返るほどの大声で「頑張れよ!」と叫びました。でも、私はただただ嬉しくて仕方ありません。励ましが率直に胸に届いたのです。その方はすべての持ち物を、ふるさとに置いてきた方です。それなのに、何も持たないその方は、尚、私に励ましを与えてくれたのです。彼が与えてくれたほどの大きな励ましと勇気があるでしょうか。
 傷つきながらも確かに存在する誰かのために、何ができるのかを自ら問う時、 私に何ができただろうか、と思うのです。深い悲しみの前におろおろと佇むことしかできない私、何も持たない方の温かな言葉に強く励まされている私は、与えるというよりは多くのものを与えられ、尚、受けとるばかりなのです。傷つき、悲しむ人たちによって。  それでも尚、教会に連なる人たちは、今こそキリスト者独自の働きを、恐れずに行えばよいと思うのです。独自の働きとは何か。それはどのような形であれ、傷ついている目の前の一人を大切にし、寄り添うということだと思うのです。 イエスさまは「愛しなさい」と言っておられますが、愛することは、自分が「とてもじゃないけど愛せない」ということを知った上で、「愛したい、寄り添いたい」と、謙遜な目線から願い続けることだと思うのです。
 凄惨な現場と深い悲しみの前に無力感を覚える時、愛せない、寄り添えないと悲しく思う時、マザーテレサの次の言葉が、確かな説得力を持って教えてくれます。
 「大切なのは、何をするかではなく、どれほど心をこめたかです。」
 心をこめるとは「祈り」であり、被災者たちはそんな温かさを伴う「祈り」を必要としているのではないかと思います。そして、祈ることは、今このような世にあって、キリスト者の力の見せどころだと思うのです。
 東京在住 女性 S.M

(特集-だれかのためにできること4 2011/7/24)

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