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22. 迫害下の教会で司祭として Ⅱ

―他者のために生き抜いたディオゴ結城了雪神父―

 ディオゴ結城了雪は、1547年阿波国(徳島県)に生まれる。祖父は足利将軍の弟、妹の祐賀は足利義種の妻という高貴な家系である。
 1595年21歳でイエズス会入会。1597年には、長崎で26聖人の殉教があった。そのうちのパウロ三木とヨハネ五島とディオゴ結城は知り合いだった。1601年からマカオに留学。1604年帰国。伏見教会に派遣され徳島に渡り、蜂須賀家政、足利義種の面前でキリストの教えを説いている。セミナリオで教えながら神学を学ぶが、1614年、高山右近と共にマニラに追放され、翌年、当地で司祭に叙階された。当時のイエズス会管区長は「ディオゴ結城神父、日本人、実直、仕事熱心で日本人の間で効果を上げ、感化を与えた。数日前に日本に帰国」と彼を描写している。1616年密かに長崎に戻り、その後は、殆ど日本中を駆け巡りながら、隠れ散らされた信者を訪ね、力づけ、司祭としてゆるしの恵みと聖体を授け励まし続けた。1619年の京都大殉教の時には、ベント・フェルナンデス神父ミゲル草庵と一緒に信者たちを励まし、遺体を埋葬し、その一部を記録に残している。
 1625年、驚くほどの良いラテン語で、ローマへ教会の状況、捕らえられた宣教師、殉教者などについて、正確かつ詳しい報告書を送っているが、自分については「神の恵みによって元気です。できる限り手伝うために働きます」とのみ記している。また、日本の教会で働く司祭の養成方法や日本の教会の運営、状況などについて、若い司祭は重大な問題について自信を持ってイエズス会総長にも見事なラテン語で自分の考えを書き送っている。
 1636年四国の大坂で捕らえられた。訴訟褒賞制により、捕まえられた一人は、もうの一人の信者を訴えることにより釈放されていたが、彼は「誰にも迷惑をかけなかった」と言い自分を援助した人たちをかばい通して一言も漏らさずに死を選んだ。
 「1636年、ディオゴ結城了雪は、イエズス会日本人、大坂において穴の中に逆さに吊るされて3日目に死亡した」(カルディン)2月25日、迫害下の教会で、司祭として高貴、高潔な精神、繊細、忠実、教養ある文化人として62歳の生涯を終えた。

参考資料
・一八八まるちれすの地を訪ねて カトリック生活2008年3月(ドン・ボスコ社)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)
・恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社)
・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社)
・殉教者から現代人へのメッセ-ジ 福音宣教 2008年2月号

(特集-日本の殉教者 22 2008/10/24)

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