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23. 迫害下の教会で司祭として Ⅲ

―神と人々への愛を豪胆に生きたトマス金鍔次兵衛(きんつばじひょうえ)神父―

 次兵衛は大村の城下町で生まれで、貧しい熱心なキリシタンの家庭に育った。両親もまた後に殉教者となっている。6歳で有馬のセミナリオに入学。同級生には、ペトロ岐部、すでに列福されたトマス西、小西行長の孫で1644年に殉教したマンショ小西たちがいる。
 キリシタン禁令により、すべての宣教師、修道士、セミナリオの生徒たちも国外に追放され、トマスも神父たちと一緒にマカオへ渡る。そこでのセミナリオが閉鎖されたため、20歳で日本へ戻り、迫害下の教会で伝道士として働くが、司祭として同胞を助けたいという望みは絶えず彼の胸中にあった。アウグスチノ会の司祭との出会をきっかけに、司祭となるためにマニラに渡ってアウグスチノ会に入会。修練、勉学を終え、1628年、26歳で、司祭に叙階される。その後、何回も日本への渡航を試みるが、失敗に終わる。
 1631年、侍に変装し遂に日本船に乗りこみ帰国に成功する。厳しい迫害の中、昼は馬丁に変装して長崎奉行所に忍びこみ、牢にいる宣教師と出会い、指導を受け、情報を得、信徒たちに許しの秘蹟、聖体の秘蹟を授け支えた。外海の山中ふくろう谷と呼ばれる洞窟に隠れ住みながら、魔法と如術を使う伴天連と言われるほどに、神出鬼没、至る所に出没し、人々に洗礼を授け、告解を聞き、ミサを捧げ、司祭として信徒を励まし力づけ、昼となく夜となく働き続けた。
 金鍔次兵衛の影響力に気づいた奉行所は、金鍔次兵衛を探し出すために人相書きをつくり多額の賞金をかけて捜査を進める。6年後、スパイによって諸聖人の祝日に捕えられる。数々の拷問、水責め、大きな鉄のピンをゆっくり爪の中の関節まで押し込む、銛先をつけて焼き固めた竹を体に突き刺すては引き抜くなど、言語に絶する過酷な拷問を半年以上も受け続けたが屈することはなかった。
 1637年、11月6日、西坂の刑場への道中で「キリストにささげられる信仰は永遠に」「私はキリストの信仰への愛のために死に行くのです」とトマス神父は叫び続けてカルワリオの丘を登り、穴吊の刑という極刑に処せられ37歳の生涯を閉じた。
 トマス金鍔次兵衛神父は、マカオやフィリピンで学び、広い視野から日本を眺め、迫害下の教会で、大胆豪快に司祭としての重大な使命を生き全うした。

参考資料
・一八八まるちれすの地を訪ねて カトリック生活2008年6月(ドン・ボスコ社)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)
・恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社)
・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社)
・キリストの証人 フーベルト・チースリク著(聖母の騎士社)
・心のともしび 第592号

(特集-日本の殉教者 23 2008/11/7)

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