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19. ~「釜石ベース」への派遣~

7月から毎月、4日間、釜石ベースに行かせて頂いています。

7月:市民体育館の避難所を訪問しました。傾聴ボランティアは、蛍光色のベストを着用し、肩もみなどしながらお話しを伺います。
 震災後、この「蛍光ベスト」が「カリタス釜石」として、信頼のおけるボランティアとして地域に認知されているようです。
 震災後、10時間後に海上自衛隊が海に出た時には、タンスやテレビなどの家財道具の間に浮かんでいる遺体を収容し、町には瓦礫と避難所と遺体しかなかったところから始められたそうです。

8月:初めてのお盆に伺いました。11日に、3000本のろうそくに火を灯し、復興の願いを込めて、復興祈願祭が行われました。300枚の浴衣が配られ、花火が上がり、瓦礫の町が浴衣の人々で賑わい、「こんなに大勢が集まり賑わったのは久しぶりだ。」と、地元の人が感慨深げに語ってくれました。
 毎月11日2時46分には、サイレンが鳴り、黙祷をします。その時間をはさんで、「テゼの祈り」をお捧げ出来るのは、ただただ感謝です。

9月:仮設に設けられた集会所で、社協と連帯して「笑うべ」を開催しました。すべてを流され、地元を離れ、知らない人たちの中で、引きこもったり孤立したりしないために、交流を持ってもらうことが目的です。戸別訪問し、安否確認を兼ね、声をかけてお誘いしました。阪神大震災の時のような、仮設に移ってからの孤独死は、何としても回避したいのです。

10月:少しずつお店も復興し、仮設にも食堂が出来、釜石の人達は、東北魂で忍耐強く頑張っておられます。
 絶句するような状況を乗り越えようとする「そこ」は、イエス様の十字架が、闇を貫いて神様の光にはいられたように、絶望の極みが、神様の憐れみと祝福の極みに突き抜けているような、「不思議な」感じがします。
 ボランティア活動を通して90歳近いお爺ちゃんに会いました。あの日、津波に呑みこまれながらも、やっとの思いで何かに捕まり、助かった時には、足は骨折し、血は方々から噴き出していたそうです。今、仮設で独り暮らしをし、自炊をしておられますが、自分の食べる位は、自分で作るのは当たり前と、この夏ご自分で栽培したミニトマトを、 私の手に乗せて下さいました。
 腰は、90度くらいに曲がっておられるのに、10月には瓦礫の中の廃材を利用して、棚までご自分で作られていました。私は、自分の生活に戻ると、「物を買う」生活ですが、その方から、本当の豊かさを見せて頂いている気がします。謙遜で頭の低いすてきなお爺ちゃんで、その方の中にイエスさまがおられることを拝ませてもらっている気がします。
日頃は、私の中の「悲しみ」や「痛み」は分厚い壁の向こうに閉じ込めて、何でもないような顔をして生きています。・・・が、神様が創られた「人間の真実の姿」に触れる時、その前で、わたしは子どものようになります。すべてをはぎ取られた人々の中に、私は自分自身を見る気がします。ボランティアは何かをさせて頂くために行っているのではなく、そこでの魂の触れ合いに魅かれて、また行っているのかもしれません。
物が無くなり、美しいこころの交流が、あちらにもこちらにも花開いています。 神様のなさることは、いつも神秘です。

千葉県 50代女性

(特集-だれかのためにできること19 2011/11/4)

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