こころの散歩

砂漠の仏

砂漠の仏

 友人の体験を聞いたことがある。
 アラビアの砂漠を車で横断していたときのこと、車が故障して動けなくなってしまった。灼熱の太陽が西に傾いたころ、やっと一台の車が通りかかった。理由を聞いた運転手が「待っていてください」と指示して行ってしまった。砂漠は急に冷えてくる。真っ暗になって数時間たったとき、彼方からライトの光が見えてきた。失望し始めていたときだった。例の運転手が修理屋をつれて来たのである。
 「地獄に仏」とはこのことだと、その友人はいった。その運転手にとってみれば大変な時間のロスである。修理代を支払い、その人のお礼にといくばくかを出したが、決して受け取ってくれない。それで彼の住所、氏名だけを控え、別れて旅を続けた。
 旅を終えて、改めて助けてくれた人を訪ね、迷惑をかけたおわびと感謝のしるしにと何がしかのものを包んで差し出した。ところが、その人は恐ろしい勢いで怒りだしたというのだ。
 「砂漠の民は、砂漠で困っている人を見放すことは許されない。砂漠は死と背中合わせの場所である。助けるのは当然で、その義務を果たしたからといって謝礼を受けたら、神の呪いを受けることになる」
 こう諭されて友人は帰ってきたという。金銭ですべてがはかられるこの世のなかで、厳しい生活条件のなかに生きるイスラムの人たちのあいだには、人間の踏み行うべき仁義が生きていたのである。

後藤 文雄 著 「カンボジア発 ともに生きる世界」(女子パウロ会)より
画: 泉 類治
  

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