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10. 信仰の座標 父親の模範 Ⅲ

―ガスパル西玄可―

 ガスパル玄可は、未亡人のウルスラ・トイと結婚、その連れ子ガスパル・トイ、それにウルスラとの間に長男ヨハネ又市、次男トマス西兵次(1987年、教皇ヨハネ・パウロ二世によって列聖)、長女マリア、三男ミゲル加左衛門と4人の子どもを授かりました。
 ガスパル玄可は、生月(いきつき)山田の籠手田領の総奉行、また生月教会の総責任者で、信者たちを指導し世話をする慈悲役と呼ばれる人たちのリーダーでした。
 豊臣秀吉のバテレン追放令に始まった迫害の波が及ぶ中、玄可は、生月の領主となった仏教徒の鎮信(しげのぶ)に奉行職を取り上げられ、身分も財産も剥奪されます。そんな中でも玄可は、生月に留まり、妻ウルスラに支えられて慈悲役のリーダーとして懸命に働きました。子どもたちはそんな父親を心から尊敬し誇りに思っていました。
 鎮信は自分の命令に背いて信仰を棄てないばかりか、リーダーとして働いている玄可に激怒し、妻のウルスラ、長男又市まで処刑するように命じました。玄可の尊敬する友人、山田の奉行、井上右馬允(うまのじょう)に玄可の処刑が任されます。
 玄可は、平戸から来た使者の目的を知っていたので死を覚悟し、心の準備を整えました。「わたしは、キリシタンの信仰のために逮捕されることは実に幸せです。信仰の証のために捕らえられるなら主に感謝を捧げます。わたしはそれを最も望み、期待し、その準備をしてきたのです。」と答えたので、立会いの人々は大いに驚き、不思議に思いました。刑場に着くと「井上殿、わたしがここで生命を捧げることは、わたしが望んだ道ですから、あなたには何の責任もありません。ご安心ください」と親友右馬允をねぎらい、そして跪いて縛られた手を天に差しのべ、やがて黙って首を差し出しました。右馬允は涙をこらえ、一太刀で玄可の首をはねました。
 役人は妻ウルスラと長男又市二人を処刑するためにごまかして連れ出しますが、その時玄可の死が知らされます。母と子が死を覚悟して進んで行くその途中、突然刑史が刀をとってウルスラの胸を突き刺しましたがよく切れません。ウルスラはイエス・マリアの名を呼びながらひざまずき二度も三度も繰り返しました。別の刑史が二度目の打撃を与えると彼女の首は地面に落ちながらイエス・マリアと言ったので刑史は大いに驚き恐れました。
 玄可は父親として、また教会の柱として、生涯をかけてキリストの道を示し、神と人に仕えて生き抜き、「父のようになりたい」と心に決めて歩んだ子どもたちも父親と同じ信仰を、父親のように生き、日本教会の家族の模範となりました。

参考資料
・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社)
・愛の証(殉教者列福調査委員会)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)
・まるちれす 長崎大司教区 長崎地区カテキスタ養成委員会
・恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社)

(特集-日本の殉教者 10 2008/5/9)

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